人事のアカデミア
ジョージ・オーウェル
ディストピア小説の根底に流れる民衆文化への温かい眼差しに触れる
グローバル競争のなかで自国第一主義が台頭し、技術の進化がデジタル管理社会の到来を予感させる。この混迷の時代に再注目されているのが、ジョージ・オーウェルだ。『一九八四年』などディストピアを描いた作家として知られるが、オーウェル研究の川端康雄氏は、「根底には民衆文化への共感がある」と指摘する。オーウェルが好んで使った「ディーセンシー(人間らしさ)」をキーワードに、オーウェルの新しい読み方を探求する。
ディストピア世界のイメージで固定化されたオーウェル像
梅崎:ジョージ・オーウェルの作品で最も知られているのは、近未来の全体主義国家を描いたSF小説『一九八四年』でしょう。「ソビエト神話」への警鐘として書かれた風刺小説『動物農場』も有名です。読んだことはなくても、書名は聞いたことがあるという人も含めればかなりの人数にのぼると思います。
川端:もともと英国では、ジャーナリストとして多少名前が知られているくらいの存在でした。1945年に刊行した『動物農場』で一気に売れっ子作家となり、その4年後に刊行した『一九八四年』が世界的ベストセラーになりました。オーウェルは1950年に46歳で亡くなりますので、生前、脚光を浴びたのは晩年の数年間ということになりますね。
梅崎:一般的にオーウェルは「反ソ・反共」の作家として知られています。ジャーナリストとして労働者の過酷な現実を取材した後、ファシズムに対抗する民兵組織の一員となりスペイン内戦に参加しますが、スターリン下のソ連共産党の欺瞞を目の当たりにして、スターリニズムや全体主義への反発を強めていきました。
川端:『一九八四年』と『動物農場』の刊行がちょうど冷戦初期にあたり、西側諸国の「反ソ・反共」プロパガンダに利用された影響が強いと思います。そのインパクトは大きく、オーウェルは常に政治的な色眼鏡で見られるようになりました。1984年の「オーウェル年」には、管理社会への警鐘としての『一九八四年』論が盛り上がりました。今では「Orwellian(オーウェル的)」という形容詞も生まれ、全体主義体制や行きすぎた管理社会化を指す言葉として使われています。
梅崎:確かにこの2冊の代表作は、暗くて恐ろしいディストピアのイメージがつきまといますが、政治的な色眼鏡を外してみると、オーウェルの違った側面も見えてきます。私自身もオーウェル作品ではエッセイのほうを愛読しており、一般的なオーウェル像とのギャップにとまどうこともありました。それだけに川端先生が提示されているオーウェルの新しい読み方は大変興味深いものでした。
川端:英文学研究におけるオーウェルは、優れたエッセイの書き手として比較的早くから評価されていました。民衆の文化や伝統への共感が感じられる作品が多く、日本でも大衆文化研究の鶴見俊輔が、オーウェルに注目して盛んに紹介していました。
梅崎:川端先生ご自身のオーウェルとの出合いは何だったのでしょうか。
川端:学生時代にアングラ演劇に関わっており、もともと実験的な集団創作に興味を持っていました。そのなかで影響を受けたのが、恩師の小野二郎によるウィリアム・モリスの芸術論です。モリスは、後世に残るような絵画や彫刻作品(グレーターアーツ)に対して、名もなき職人による生活のなかの小さな芸術(レッサーアーツ)の復興を唱えました。
梅崎:モリスは民衆芸術に価値を見出していました。その思想が、生活と芸術を一致させようというアーツ・アンド・クラフツ運動へとつながるわけですね。
川端:そうです。小野はモリスの研究者でしたが、オーウェルについて触れた『紅茶を受皿で』というエッセイを出しています。英国の上層中流階級では、紅茶を受皿で飲むのは無作法とされていますが、オーウェルはBBCに勤務していた頃、同じ行為をしたという話があります。おそらく気に入らない相手への嫌がらせでしょう。
ところが小野がアイルランドの田舎町を訪れた際、現地のおばあさんが当たり前のように紅茶を受皿に注いですするのを目撃して、これは労働者階級の人々の間では昔からの慣習の1つであることに気づきます。つまりオーウェルの行為には、民衆の伝統へのあこがれがあったのではないかと思い至るのです。
童謡や伝承などの民衆文化が物語に織り込まれている
梅崎:確かにオーウェルのエッセイなどを読むと、庶民の暮らしへの共感が垣間見える気がします。川端先生は、エッセイ以外の作品、それこそ『一九八四年』や『動物農場』にも、その思想が流れていることを解き明かしています。
川端:これらがオーウェルの政治的意図が込められた作品であることは確かですが、単にソビエトを批判したいなら、英国に古くからあるパンフレットの形式で執筆してもよかった。しかしあくまでも文学作品として作られており、体制批判を超えた普遍的な価値を持っています。実はそのベースには皆が共有している民衆文化があり、多くの読者にとって思い当たるところがあるからこそ、今も読むに値する作品になっているのです。
梅崎:民衆文化の視点からオーウェルを読み直したのが、ご著書の『オーウェルのマザー・グース』です。
川端:政治的な文脈は一旦脇に置いて、小説の素材である言葉に着目してテクストを分析すると、オーウェルが作品のなかにさまざまな童謡や伝承を織り込んでいることがわかります。たとえば『一九八四年』では、マザー・グースの「オレンジとレモン」を下敷きにして、小説のプロットが構成されています。「オレンジとレモン」は遊戯歌の1つで、日本でもおなじみの「ロンドン橋」のように二人の鬼が手を組んでアーチを作り、その下をくぐる一人を捕まえる遊びです。『一九八四年』には、徹底した監視・管理社会に疑問を感じる主人公が、ノスタルジアを持ってこの歌を思い出す場面が随所に出てきます。中盤のストーリーはこの歌を模倣して進んでいき、主人公が恋人と一緒に捕まる場面では、「さあ来た、首切りが……」という遊戯のクライマックス部分のセリフとともに思想警察が踏み込んできます。
梅崎:英国ではなじみ深い童謡なんですね。そうした誰もが慣れ親しんだリズムとか語り口とか形式のようなものが、作品の奥に隠れていて、読者は民衆の記憶に接続できる。
川端:そうですね。絶望的な世界を描いた作品だと語られがちですが、童謡を使って遊んでいる作者の姿が浮かび上がります。
梅崎:『動物農場』では、政治的な読み方だと、どのキャラクターが誰を表しているかばかり注目されます。独裁者になる豚の「ナポレオン」はスターリンをモデルにしているとか。
川端:でも一方で、この本の原題には「A FairyStory(おとぎばなし)」というサブタイトルがつけられています。それぞれのキャラクターも、マザー・グースに登場する動物のイメージを重ねていたり、物語に出てくる重要なスローガンに、童謡の歌詞のリズムを取り入れていたりします。
たとえば羊は、群れを作り、ほかの羊の行動を模倣する習性があります。その生態を活かして、物語のなかでも、羊はまったく逆のスローガンを与えられても素直に従ってしまうキャラクターとして描かれています。独裁体制が進み、動物農場の掟も改竄され、最初は「四本足いい。二本足わるい(Four legs good, two legs bad.)」と掲げられたスローガンが、ひっくり返って「四本足いい。二本足もっといい(Four legs good, two legs better.)」となるのですが、実は原文の「bad」「better」は、「baa-baa(バーバー)」という羊の鳴き声とかかっているんですね。
地下水脈のように流れ続ける「ディーセンシー」という思想
梅崎:面白いですね。全体を通していえるのは、オーウェルの作品には、こうした遊びやユーモアの要素が随所に見受けられるということです。先生も「著作の多くには『漫画的思考』と呼びたくなるような、読み手の精神のこわばりをときほぐすような性質が備わっている」と指摘されています。
川端:スペイン内戦に参加した記録『カタロニア讃歌』も同様です。オーウェル自身も銃撃されて瀕死の重傷を負ったり、共和国側の内部抗争の煽りで多くの同士が弾圧されたり、スペインでの厳しい経験を描いたルポルタージュの名作ですが、笑わせる描写も多くあります。
ある戦線では、3カ月ほど本格的な戦闘がまったく起こらず、敵味方のあいだを何度も行ったり来たりしていた不発弾にあだ名をつけていたそうです。また、敵の士気をくじくために両軍がメガホンを持って叫び合いをするのですが、なかには「俺たちは今おいしいバター付きトーストを食べてるぞ」というものもあり、嘘だとわかっていてもよだれを流して戦線を離脱する者も結構いたとか。そんなどこか抜けている人間の姿が描かれています。
梅崎:川端先生は、オーウェルが生涯を通じて、「ディーセンシー(decency)」を追求していたと訴えています。ディーセンシーとは、一言では訳しにくい、非常に多義的な言葉ですね。「人間らしさ」「まっとうさ」「品位」など、いろいろな訳語があります。
川端:ディーセンシーは、オーウェルが好んで使った言葉で、ちょっと抜けたところも含めた人間らしさへの信頼のようなものでしょうか。エッセイ「スペイン戦争回顧」の一節に、塹壕から慌てて飛び出してきた敵兵が、ずり落ちるズボンを押さえながら逃げていく話があります。十分に狙える距離でしたが、ズボンを押さえて逃げる男は、敵対するファシストではないと感じてオーウェルは撃つことができませんでした。イデオロギーは相容れなくても、明らかにその男は自分と同じ人間だと思えたからです。
梅崎:オーウェル独特のユーモア感覚は、ディーセンシーとつながっているのですね。
川端:大衆文化を考察した「ドナルド・マッギルの芸術」というエッセイでは、英雄になりたいドン・キホーテと、楽をして生き延びたいサンチョ・パンサを対比して、私たちのなかにはその両方があると訴えます。高邁ではなく、自分が大事で、情けない部分も多いけれど、サンチョ・パンサのような「地を這う虫から見た人生の眺め」も大切なのだと。オーウェル自身が中流階級出身だったことへの反発もあったかもしれませんが、庶民の暮らしぶりや民衆の文化への共感を常に持っていたと思います。
梅崎:コロナ禍もあり、世界的に全体主義への警戒感が高まっています。イデオロギーにイデオロギーで対抗しても、どちらの陣営も統制を強めて体制強化することになり、結局は抑圧的な全体主義の構造から逃れられない。むしろ今こそ、サンチョ・パンサ的な目線で精神のこわばりをときほぐす、オーウェル作品のユーモア力が求められているのかもしれません。
川端:そうですね。この機会にぜひ、人間的な日常を描いたオーウェルのさまざまな作品を味わってほしいと思います。
Text=瀬戸友子 Photo = 刑部友康
川端康雄氏
日本女子大学 名誉教授
Kawabata Yasuo
明治大学文学部文学科英米文学専攻、同大学院博士課程中退。専門は英国文学、英国文化研究。小野二郎、平野敬一に師事。十文字学園女子短期大学助教授、十文字学園女子大学教授を経て、2002年から2023年まで日本女子大学文学部英文学科教授。
人事に勧めたい本
『増補 オーウェルのマザー・グース─歌の力、語りの力』
(川端康雄/岩波現代文庫)
オーウェルのテクストを民衆文化の視点から読み直し、decency(人間らしさ)への共鳴を描き出す。
梅崎修氏
法政大学キャリアデザイン学部教授
Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。
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