人事のアカデミア
運
ままならない「運」との 向き合い方を倫理学に学ぶ
不透明な時代こそリスクヘッジが必要だ。往々にして物事は計画通りに進まないが、かといって運任せにするわけにもいかない。少なくともビジネスの世界で運を言い訳にするのは無責任というものだろう。意志や努力ではどうにもならない運の存在を認めながら、私たちは意志や努力でなんとか運をコントロールしようとする。それでも報われず、途方に暮れることもある。ままならない運とどう向き合っていけばよいのか。倫理学における運と道徳の関係を研究する古田徹也氏と考える。
倫理学の歴史を通じて「運」は厄介者だった
梅崎:キャリア論のなかでも運について語られることがあります。1つは、最近「親ガチャ」などという言葉も生まれましたが、生まれ育った境遇の運が生涯キャリアを決定しているという言説です。そのメカニズムを明らかにすることで、社会構造の改善につながる半面、子を持つ親たちの不安は募り、なんとか境遇の運をコントロールしたいという思いにかられます。
もう1つが、良い偶然を引き寄せて結果の運をコントロールするというもので、キャリア論では、教育心理学者のクランボルツによる「計画された偶発性理論」が有名です。スキルを磨いてセレンディピティを呼び込もうという姿勢は、前向きではありますが、過度にポジティブであることを強要されているような気持ちにもなります。
研究の意義深さは理解できるものの、現実の人生を考えるともっと違った運との付き合い方があるのではないかと感じていたところ、ご著書の『不道徳的倫理学講義』を知り、大変興味深く読みました。
古田:日々の生活のなかで運に左右されることはたくさんあるのに、倫理学では運など存在しないかのように論じるものが多いのが不思議でした。そこであらためて倫理学史を見直してみようと考えた次第です。
梅崎:倫理学の歴史を通じて、運というテーマはどう扱われてきたといえるでしょうか。
古田:主な流れとして、運はずっと厄介者扱いされてきました。道徳と運は本質的に食い合わせが悪いのです。やはり多くの人は、「善き心を持ち、善き行いをする者が報われるべき」と望んでいて、悪人が運良く罰を逃れるのは公正ではないと感じています。
梅崎:ご著書では、厄介者の運とどう付き合うかの歴史が綴られています。古代ギリシアのソクラテス、プラトンなどの哲学者は「徳」を唱えました。思慮深く、徳を備えた者は、どんな不運に遭っても幸福であると説いています。その後も運をめぐる議論は、アリストテレスやストア派の哲学者へと受け継がれていき、近代以降はデカルト、そしてカントへと続きます。
古田:時代を経ても、一貫して根底に流れているのは、人間の理性の力によって運の影響を排除、もしくはコントロールしていこうという思想です。カント主義の影響を強く受けた近現代以降は特に、20世紀半ばまで運の問題はほぼ無視されてきたといってもいいでしょう。
梅崎:カントといえば、人間の理性を重んじ、自由意志で道徳を実践すべきという究極の合理主義のイメージがあります。しかし、これを突き詰めていくと、起こったことはすべて本人の責任だという自己責任論に行き着いてしまう危険もある。たまたま貧困家庭に生まれた人に、「環境を嘆くのはお前の合理性が不徹底だからだ」と突きつけるのはずいぶん酷な話ですよね。
古田:そう思います。ただ、カント自身も人間が環境の影響を受けてしまうことは重々承知しています。それでもなお、最後は自らの意志で踏みとどまって道徳的行為を選択することを理想としている。自由意志とはそういうものでなければならない、という確固たる信念に基づいているのです。カント自身は必ずしも頭でっかちの理性偏重とは言い切れないのですが、近代以降、カント主義的な人間像が定着していったことは間違いありません。
道徳は単なる義務ではないいかに生きるかを問うもの
梅崎:確かに近代的な社会システムは、意志を持った責任主体を前提にしなければ成り立たない。でも、現実には人間が常に明確な意図を持って行動しているとは限りません。カントと同時代のアダム・スミスの議論は、運という曖昧な要素を取り入れたものといえるでしょうか。
古田:やはりスミスも、人間の理性を重視していることに変わりはありません。道徳的評価は、本人の意図に対して下されるのが公正である、運に左右される形で、物事を評価するのは間違いだとはっきり言い切っています。この原則に基づくと、たとえば電車が揺れて、意図せず他人の足を踏んでしまったときに申し訳なく思って謝罪するのは誤りだということになります。
梅崎:自分で意図したわけではない、コントロールできないことに責任を負う必要はないということですね。
古田:はい。ただ、スミスのユニークな点は、公正の原則からすれば誤りではあるが、不完全な人間は、神のように偏りなく公正な評価が下せるわけではないと認めているところです。他者に対して関心や愛情を感じ、咎(とが)がなくても申し訳なく思うのは人として自然な特性なのだ、と。ある意味で「自然に騙されている」わけですが、こうした特性があることで、結果的に人は善行に向けて努力するようになり、社会全体の最善に近づくといいます。
梅崎:有名な「見えざる手」は、まさにそういうものですね。自分の利益追求のためであっても、個人が労働に励むことによって、結果的に国の富が増大するという。
古田:その通りです。ただ、繰り返しになりますが、スミスも運の影響を受けることを肯定しているわけではない。人間は不完全な存在だから仕方がないものと受け止めている、といったほうが正確でしょう。
梅崎:しかしいくら否定されても、現実に人は日々、運の影響を受けながら生きているわけです。
古田:現代に入ると、運を排除する議論に異議を唱える論者も何人か出てきました。そのなかで、まさに人間の実態に即して運と道徳の問題をとらえた異色の倫理学者が、バーナード・ウィリアムズです。ウィリアムズが例として挙げているのは、芸術家としての飛躍を期し、家族を捨ててタヒチに渡った画家ゴーギャンです。一般的な規範に照らせば家族を捨てるという選択は道徳的に非難されるものですが、タヒチに渡るという選択は、芸術家としての生き方の問題でもあります。
梅崎:ウィリアムズは、義務や規範のような狭義の道徳と、いかに生きるべきかという倫理的な問いを含む広義の道徳を区別しました。
古田:道徳という概念はもっと広いものではないかと提起したわけです。私はいかに生きるべきか、どの道に進むべきかの決断は、狭義の道徳と重ならないこともありますし、その先は向かってみなければわからない運にまみれた道のりです。ある意味では賭けになりますが、その都度自分に跳ね返ってきた結果を、どうにかして受け止めて、泥の道を進んでいくしかありません。
運命と偶然のあいだでバランスを探っていく
梅崎:古田先生は「日常とはそもそも不穏なものではないか」と投げかけています。ご著書では、あわせてウィトゲンシュタインの「ザラザラした大地に還れ!」という言葉を紹介していますね。
古田:理想的な条件を設定すると摩擦の存在は無視されてしまうけれども、現実の世界には摩擦は存在しているし、摩擦なくして人が歩くこともできません。ウィトゲンシュタイン自身は道徳について語ったわけではないのですが、この言葉はまさに人生にも当てはまる。生きるということは、ザラザラした大地を歩いていくことだと思うのです。
梅崎:日常を不穏なものととらえると、それはそれで不安になる人もいるのではないでしょうか。
古田:確かにそうです。さらに不安が募り、少しでもリスクを減らそうとより神経をすり減らすことになる可能性もあります。その一方で、そのときどきの変化に対処しやすい側面もあるでしょう。今回のコロナ禍のように想定外の事態が起きたとき、日常を安定したものと考えていると、ずっと頼りにしてきた足場が崩壊したような衝撃を受けますが、不穏な日常の延長線だと思えば、少しは落ち着いて事態を受け止めることができるかもしれません。
梅崎:なるほど。運をめぐる議論は、私たちが生き方を考えるうえで、さまざまなヒントを与えてくれます。
古田:「運」という言葉が、「運命」と「偶然」を意味しているのは象徴的です。実は英語でも古代ギリシア語でも、「運」を表す言葉には、必然と偶然という相反する2つのニュアンスが込められています。
梅崎:近代以降に生きる私たちは、つい物事に意味を求め、必然化してしまいがちですが、偶然を偶然として受け止めるという態度もあり得るわけです。志賀直哉の『城の崎にて』という小説は、投げた石が偶然イモリにあたって死んでしまったという話が出てきます。普通なら、この石になにか特別な意味がないと物語の読者としては満足できないところです。おそらく、ちょうどよいところで偶然の存在感を描けているから、志賀直哉は小説の神様と称されているのでしょう。
古田:坂口安吾は『文学のふるさと』というエッセイで、童話の『赤ずきん』について論じています。グリム童話では赤ずきんもおばあさんも最後に助かりますが、元のシャルル・ペロー版では赤ずきんが狼にむしゃむしゃ食べられて終わりです。何の咎もない少女が、たまたま狼に出くわして食べられてしまう。私たちはただただ呆然とするしかありません。でも、これが文学のふるさとなのだ、と安吾はいうのです。
梅崎:偶然を偶然として受け止めるとはそういうことですね。恋愛に例えれば、この人は運命の相手だとすぐに思い込むのではなく、偶然に出会って、長く付き合っていくなかでもいろいろなことが起きて、新たな魅力が見えてきたりする。そういう偶然のままの変化を受け止めることができればよいのですが……。
古田:そうですね。運とは本来、必然と偶然の両方の意味を持っているもの。現代は必然のほうに重心がかかりすぎているので、別の引き受け方があることを伝えられればと思っています。そして、どちらか一方に偏るのも違う。誰もが、必然と偶然のあいだでなんとかバランスを取りながら、自分の人生を歩んでいくのだと思います。
Text=瀬戸友子 Photo = 刑部友康
梅崎修氏
法政大学キャリアデザイン学部教授
Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。
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