人事のアカデミア
三島由紀夫
近代人の孤独を先取りしていた三島を通じて現代を見つめ直す
三島由紀夫といえば、いわずとしれた日本を代表する作家の一人だ。芸術的な作品は世界にもファンが多く、ノーベル賞候補にもなった。映画に出演したり、ボディビルで体を鍛えたりと、執筆以外の活動でも注目を集めたが、何よりも自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂げるという衝撃的な最期は多くの人の記憶に残っている。それから半世紀が経っても、いまだに三島は私たちの心をざわつかせる。「三島の孤独は現代のそれと地続き」と語る文芸批評家の浜崎洋介 氏とともに、三島が発してきた問いを改めてひもといてみる。
近代を象徴する存在 三島の苦悩は今に通じる
梅崎:小説の好き嫌いを超えて、三島由紀夫という人物には興味をそそられます。なぜ私たちはこれほど三島が気になるのでしょうか。
浜崎:1ついえるのは、三島はとてつもなく孤独だったということです。戦後の復興から急速に近代化する日本においては、共同体のつながりは絶たれ、個人主義が進んでいきました。システム化され、誰もが仮面をかぶっているような人工的な世界のなかで、生きていながら現実感が得られない。これはまさに、現代を生きる僕たちの息苦しさと地続きの感覚でしょう。
梅崎:三島自身は1970年に亡くなっていますが、確かにその後の日本社会を暗示していますね。1990年代以降の苦悩を先取りしている。
浜崎:戦前の昭和期には東京の都市化がかなり進みましたし、東京に限っていえば、三島が生まれた頃と今とではそれほど大きな違いはないと言っていいと思います。
実際、三島には現代思想に通じる部分があります。三島が最も影響を受けた作家のオスカー・ワイルドは、記号論の祖と呼ばれるソシュールと同時代の人で、言葉は現実を映したものではなく、現実を切り取っていくものだと考えていました。現代のポストモダンへとつながる思想です。
梅崎:ポストモダンとは、簡単に説明すると、脱近代主義になりますね。近代的な「主体」を否定し、皆が共有する「大きな物語」の終焉を意味します。もはや普遍的な基準は存在しないということですね。
浜崎:だから世界は視点によって恣意的に解釈できる、と。しかし、だからこそそのような世界のなかで、いかに生きている実感を得られるのかということを、三島は問うんですね。
梅崎:極めて現代的ですよね。浜崎さんは評論「郊外論/故郷論」のなかで、三島が「文化概念としての天皇」を虚構することで、新たな〈故郷=記憶〉を取り戻そうとしたと指摘しています。
たとえばシステム化された郊外のニュータウンに生まれ育つと、共同体として他者と共有する記憶もなく、ここが自分の故郷だという意識を持ちにくい。三島の作品にはこのような記憶のなさ、故郷とのつながりのなさが、一貫して描かれているように感じます。
浜崎:社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、人間が無意識に最も恐れるのが孤立だと言います。そして孤立を脱するのに必要なのは、やはり他者と関わって生きたという共有記憶なのです。記憶とは、信頼感であると言い換えてもいいでしょう。だから記憶のない三島は他者とのつながり、彼の言葉でいう「われら」を強く欲していた。天皇という記憶の集合体を虚構し、そこにつながることで、「われら」を取り返そうとしたのでしょう。
「言葉と肉体」の関係をずっと模索し続けた
梅崎:浜崎さんのご著書では、三島の自伝的作品である『太陽と鉄』をもとに、ロマン主義時代、古典主義時代、右翼時代の3つに分けて、三島の思想を「言葉と肉体」の二元論で論じています。三島の原点を探っていくと、まず幼少期の生育環境が異常です。ここにすべての原因を求めることはできませんが、母親から引き離されて、ほぼ祖母の部屋で育てられた影響は大きかったと思います。自由に外で遊ぶこともできず、陰気な祖母の部屋のなかで絵本を読んだり、歌舞伎の話を聞いたりして12歳まで過ごしました。
浜崎:虐待といってもいいでしょうね。プライドの高い祖母は、しばしばヒステリーを起こしたといいます。心理学的に言うと、子供は親が怒るパターンと褒めるパターンを何度も反復することで、秩序への信頼を醸成し、それを保護膜として新しい経験にも対処できるようになるそうです。精神状態の安定しない親は規則性がないので、そうなると子供は妄想でもなんでも、自分で保護膜となる秩序を作り上げていかなくてはいけない。三島もそうだったのではないかと思います。
梅崎:三島由紀夫の名前で初めて発表した「花ざかりの森」は16歳のときの作品です。虚構を組み合わせる創作能力は、生来相当高かったんでしょうね。
浜崎:普通の人はまず実感があって、そこにふさわしい言葉を後から覚えるんですが、三島は先に言葉が与えられていた。5歳で詩を書いたといいますからね。賢いからいろいろ真似して作り上げることができてしまう。幼少期の環境を考えると、言葉をいじれば秩序が勝手に作れるというのは、快楽だったのかもしれません。
梅崎:一方、体は弱かった。言葉と戯れる一方で、肉体への憧れも強めていきます。
浜崎:言葉の側にいる三島は、文学を通して現実や肉体や行為といったものを常に外から眺める形になる。肉体への執着が高まっていくなかで、戦前においては戦死に憧れます。自分が世界を変えられないなら世界のほうから自分を変えてくれることを期待したのです。やがて戦死という椿事が訪れて、自分を肉体の側に連れ去ってくれる。そう思ったからこそ、安心して耽美的な言葉の世界に浸ることができたんでしょう。
梅崎:ところが敗戦によってその期待は打ち砕かれます。焦燥のなかで出合ったのが「太陽と鉄」でした。
浜崎:世界旅行に出た船のなかで、太陽が肉体を照らしてくれた。それまではずっと外から眺めるしかなかった肉体を目の前に発見するのです。肉体を鍛えることで、自分も皆と同じになれる、現実の側にいけるのだと、自己改造に取り組みます。
梅崎:体を鍛え上げるため、鉄のダンベルを持って、ボディビルを始めるわけですね。
浜崎:ところが鍛えれば鍛えるほど、この肉体は何のためにあるのかということを突きつけられます。戦争が終わってしまった近代の社会に筋肉は不可欠のものではありません。鍛え上げた肉体が意味あるものだと証明するには、肉体をもって戦う敵が必要です。一撃を受けたら死んでしまうような敵の存在があって初めて、肉体の有用性が証明できる。つまり、精神の縁に肉体があり、肉体の縁に死があると考えるようになるのです。
梅崎:この頃から急速に右傾化していき、あの衝撃的な自死にたどりつくわけですが、頭の中で図式的に手番のように考えて死に行き着いてしまうというのは極端ですよね。
浜崎:そうですね。普通はそんなふうには生きられません。
選び続けるだけでなく選べなかったものを引き受ける
梅崎:現在と照らして気になるのはロマン主義についてです。三島の作家デビューを支えた日本浪曼派は、ロマン主義を掲げて「日本の伝統への回帰」を目指したグループです。近代的な合理主義への反発から生まれたロマン主義は、〈故郷=記憶〉を失った者たちの思想ともいえると思います。日本浪曼派の中心だった保田與重郎は「イロニー」を強調しました。イロニーは英語の「アイロニー」、皮肉や反語、風刺などと訳されますが、どのような意味だととらえればいいでしょうか。
浜崎:簡単に言うと「あえて」です。どのビールが好きかと問われて、「僕はあえてこれを選ぶ」なんて言い方をする人がいますよね。インテリ気質の人に多いように思いますが(笑)、ばかにされるのを恐れるのか、素直に答えない。あえて外から眺めているような言い方をします。ただし、そのベースには必ず本人の実感があります。実感を隠しての「あえて」なのです。
でも三島の場合は逆で、そもそも実感がない。あらゆるものを言葉で虚構しているので、すべて「あえて」から始まっています。だから、むしろ三島にとってはイロニーから抜け出すことこそ課題だったんです。
梅崎:最近は日本の若い人たちのあいだでも、ロマン主義が増えているように感じます。
浜崎:三島のように実感のない人は自己肯定感を持てないので、現状を否定する傾向が強まり、たいていロマン主義に向かいます。「今ここ」が耐え難いので、みんなが1つになれる自分たちの物語を理念化し、そこにいけば「われら」になれると、その不可能を知りつつも語るのです。
一般に保守の最大の敵は啓蒙主義と言われますが、保守の立場で言わせてもらうと、むしろ敵はロマン主義だと思います。保守は文字通り「保ち守る」べきものの実感があるから、これを擁護する。ロマン主義にはこれがないので、「ここではないどこか」というロマンを描く。結果的に現状否定(改革)を繰り返し、さまよい続けることになります。
梅崎:人事の世界の話をすれば、キャリア論もロマン主義的だなと感じます。偶然を活かせとか、柔軟にキャリアを変えていけなどと言われますが、これはすなわち自分の人生をずっと選び続けなければいけないということです。
浜崎:それでは、ずっとさまよい続けることになりますよね。
梅崎:だからみんな焦るし、不安になってキャリア論の本を読んだりするけれど、2日くらい経つとまた不安になる。言葉の世界だけで考えていては無限後退しますから。ただ、スポーツのトレーニングもそうですが、最初は「あえて」やっていくうちに、自然とできるようになるということもありますよね。
浜崎:そうですね。芸事でも「守破離」と言われるように、反復していくと細かい差異が見えてきて、やがて自分の型が確立されていくものです。選べなかったものでも一度引き受けて、腰を据えて取り組んでみることが重要だと思いますね。
梅崎:その反復性を現代の社会でどう取り戻すか。人が成長するのも、やはり一定の時間は必要でしょう。
浜崎:キャリア論については詳しくありませんが、カール・ポランニーが言うように、やはり人間の労働を商品化してはいけないと思います。長期スパンで、安心して仕事に取り組める状態を作れば最大限に能力を発揮するはず。人は人であって、決して「人材」ではないのです。
Text=瀬戸友子 Photo = 刑部友康
浜崎洋介氏
Hamasaki Yousuke
文芸批評家。雑誌『表現者クライテリオン』編集委員。日本大学藝術学部非常勤講師も務める。東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程修了。博士(学術)。
◆人事にすすめたい本
『シリーズ・戦後思想のエッセンス 三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』(浜崎洋介/ NHK出版) 自伝的作品『太陽と鉄』に基づく三島論。3つの時代に分けて思想の変遷を読み解く。
梅崎 修氏
法政大学 キャリアデザイン学部 教授
Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。