澤田秀雄氏 株式会社エイチ・アイ・エス 代表取締役会長、ハウステンボス株式会社 代表取締役社長、澤田ホールディングス株式会社 代表取締役社長
1980年、電話1本と机2台から始まったエイチ・アイ・エス(以下H.I.S.)は、今や誰もが知る海外旅行会社の最大手となった。日本の旅行業界の古き体質を根底から覆した澤田秀雄氏は、日本のベンチャービジネスの幕を開けた一人でもある。格安航空券の販売を皮切りに、旅行・ホテル業、国内航空業界や金融ビジネスへの参入、そして最近ではテーマパーク事業に乗り出すなど、H.I.S.グループは常に成長・発展し続けている。「山が高ければ高いほど登りたくなる」――澤田氏の原動力は、若き日より変わらぬ旺盛なチャレンジ精神にある。
好奇心の赴くままに世界へ。
50カ国以上を旅して培われた広い視野
「あの川の向こうには何があるんだろう」。ひとたび気になると、親に止められてもその川を渡る。澤田氏は子どもの頃から冒険心にあふれ、未知なる領域に対する好奇心が人一倍強かった。澤田氏の旅行好きは広く知られているところだが、それは少年の時分から一貫している。
「遠くに行っちゃダメ」と、よく注意されていましたね。とにかく好奇心旺盛で、僕としては、ダメと言われるとよけいに行きたくなる(笑)。川の向こう側や知らない所にもどんどん行っちゃうから、遊びに出るといつ帰ってくるかわからない。両親には心配かけたし、よく叱られたものです。
旅行するようになったのは高校生からで、紀伊半島を10日間かけて自転車で1周したのが最初です。コンパスで距離を測り、どのくらいの行程で半島1周できそうか、事前に計画をしっかり立てて。ところが、実際には山あり谷ありで、決して予定どおりにはいかない。でも、頭で考えていることと実際の違い、これがまた旅のおもしろさでもあるんです。
北海道1周の旅にも出ました。走っても走っても道が続く広大さに感動しつつ、途中から気になりだしたのはヨーロッパ大陸。手にしていた地図を広げるたび、北海道の横には「もっと広大な大陸があるじゃないか」と。世界を見たい、知りたいという気持ちが強くなった僕は、その後アルバイトで資金を貯め、海外の大学に留学することにしたのです。
澤田氏が大学進学する頃、日本では学生運動が過熱しており、そのような環境下では「まともに勉強できない」という思いもあった。選んだ留学先は、旧西ドイツのマインツ大学。当時、留学といえばアメリカやイギリスが多かったが、「生来あまのじゃくで、皆とは違う所に行きたかった(笑)」。この時代、澤田氏は同地を拠点にヨーロッパ、中東、アフリカ、南米など、実に50カ国以上を回っている。これらの旅で得たさまざまな体験と見識が、今日の"背骨"を形成したのである。
ドイツ行きに関しては、家族みんな大反対でした。一人息子ですしね、「また帰ってこないんじゃないか」って(笑)。40年以上も前の話ですから、今のように通信手段も発達していないし、さぞ心配だったろうと思います。
マインツは風光明媚な地でありながら、ドイツ経済の中心地・フランクフルトに隣接していて、どこへ行くにもアクセスがいい。実のところ僕としては、「旅行しやすいだろう」という目論見もあったわけです。
世界中を旅すると、それはいろんなことがあります。イランに入った時は、独裁政治を行ってきたパーレビ国王が追放されるイラン革命の少し前で、秩序が乱れた社会というものを目の当たりにし、またモスクワでは、ソビエト連邦崩壊の前兆を感じた。大国でありながら暗く、街には酔っぱらいがあふれている......この国は、近いうちにおかしくなるだろうと思ったものです。
世界って、点だけでとらえていると見えないんですよ。この頃、ドイツからウィーンへ、さらに東欧に旅行した時などは、移動するにつれ街並みがだんだん汚くなっていったのですが、それは国々の経済力や発展度を物語っている。顕著なのは駅や飛行場などの施設で、例えば今、イタリアよりイスタンブールの飛行場のほうがうんときれいなのを見れば、国の将来がどうなるか、大体の見当がつくわけです。そういった街の雰囲気、人々の様子を"線"で見てきたこと、そして時に、日本とは真逆だと思えるようなモノの考え方、価値観に触れたことは、非常に勉強になりました。ある種の全体感が身についたというか......視野を広めるというのは、こういうことだろうと思うのです。
旅とビジネスに夢中になった留学時代。
帰国後、起業へ
子どもの頃、実家は大阪で菓子の製造卸業を営んでおり、澤田氏はいわば商売人の息子として育った。漠然とながらも商売の大変さを感じていたから、「ビジネスに興味がなかったし、いわんや経営者にはなりたくなかった」という。しかし、やはりDNAなのか、澤田氏はこの留学期間中にビジネスを始めている。目的は、もちろん旅費の確保だ。
最初は通訳のバイトで稼いでいたのですが、これだけ旅行すると追いつかない。そこで、日本からのビジネスパーソンや団体旅行者向けに、レストランやライブハウスなど、一晩で数カ所の観光スポットを案内するナイトツアーを企画しまして。それなりに陣容も整え、簡単な事業のようなものをやったんです。
これが当たり、けっこう稼ぐことができました。お客さんには喜んでもらえるし、かかわる人たちも報酬を得られる。皆ハッピーでしょ。僕のなかでビジネスのおもしろさが徐々に目覚めてきたのです。商売はイヤだと思っていたのに......日本に帰国したら自分で事業を始めよう、そう考えるようになっていました。
留学中のビジネスで貯めたお金を、自分で勉強して株に投資し、結果、倍額となった資金を元手に事業を始めました。それが25歳の時。当初は、毛皮なんかを扱う貿易の仕事をするつもりでした。相変わらず、世界中を飛び回りたくて。ところが、ちょうどワシントン条約の効力が生じた時期で、毛皮の輸入が厳しくなり、断念せざるを得なかった。
じゃあどうするか。数々旅行をしてきたなか、僕は、これから日本人の海外旅行は大きく伸びるだろうと予測できていたんです。当時、ドイツでもイギリスでも国民の15%ほどが海外に出ていたし、欧米ではすでに個人旅行も始まっていたから、日本は5年、10年と遅れてその後を追うだろうと。
H.I.S.の前身であるインターナショナルツアーズを設立したのは1980年。新宿にあるオフィスマンションの1室でスタートした。格安航空券の販売に着手したのは、当時、価格規制によって設定されていた海外航空券の料金が非常に高く、その内外価格差に憤りを感じていたのが大きかった。
外国人は、日本人のほぼ半額で飛行機に乗って日本に来ているのに、なぜ我々は渡航するのに倍の料金がかかるのか。どう考えてもおかしいでしょう。僕は、少なくとも世界標準価格の航空券を提供することで、若い人たちにもっと世界に出てもらいたかった。まあもっとも、「自分で食べていかなくちゃいけない」という側面も大きかったんですけどね。
出だしは大変で、格安航空券を販売したくても肝心の仕入れができない。国内外の大手航空会社は、できたばかりの名も知らぬ旅行会社と取り引きなどしてくれませんから。マイナーな航空会社から少しずつ航空券を仕入れるようになっても、今度はお客さんが「通常の半額でヨーロッパに行けるなんて」と信じないし、怪しむ(笑)。実際に海外旅行に出かけたお客さんの口コミで、徐々に知られるようになるまで、けっこう時間がかかっています。それまでは、めちゃくちゃ暇でしたね。
この頃、個人手配の海外旅行はまだなかったし、今は全盛のLCCも、十数年前に我々が始めた頃は"はしり"。いつも「こういう時代がくる」という未来を見据えて事業を手がけてきましたが、僕は少々早すぎるのか、これまたいつも苦労するわけです。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」。
自然・バランスを保つ経営哲学
格安航空券市場を手中に収めた後は、パッケージツアーの企画販売や渡航先別営業カウンターの設置に乗り出すなど、業容拡大が続く。「旅行業界の常識を覆したH.I.S.」の躍進は、周知のとおりだ。それを支えてきた澤田氏の経営ポリシーは「バランス」、自然の摂理を重んじることである。
「自然・バランスを大事にする」というのは、起業した時から掲げている理念の一つです。生きとし生けるもの、すべては自然のなかにあるわけで、人は自分で生きているように見えて、生かされている。極端な話、明日空気がなくなれば誰もが死に、時が経てば誰もが老いる。人知を超えた力のもとで、わずかに許された自由な範囲を動き回っているだけなのです。だから、自然の摂理を崩した時には天罰が下るというか、必ず揺り戻しがある。それは、国も企業も人も全部同じ。バランスを崩せば、国なら革命や暴動が起こり、企業なら倒産、人の体ならば健康を害する。何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」なんですよ。
かつてのバブル経済も、一つ典型です。あの時我々は、土地価格が高騰した新宿から浅草に"避難"し、株だの不動産だの、いっさい投資には手を出しませんでした。異常に膨張した好景気は自然に反しているのだから、崩壊は十分に予見できた。僕が大切にしているのは、情報という「理論」と、感覚という「自然観」のバランスを保つことなのです。
それが身についたのは、やはり世界を旅してきたからでしょう。病気になったり、人に騙されたり、いろんな価値観を知ったり、経験したたくさんの事柄が「経験知」になった。あとは、創業してしばらく暇だった頃に読んだ本ですね。『徳川家康』全26巻、『史記』などといった歴史ものや、陽明学の本とかを多読しました。自分の経験知に先人の教えがプラスされるといい勉強になり、それは見識になっていったように思います。
澤田氏のもとには、その経営手腕を頼って多くの企業再生案件が持ち込まれる。なかでも、18年間連続赤字だったテーマパーク「ハウステンボス」を、経営支援に立ってからわずか半年で経常黒字に転換させたことは、まだ我々の記憶にも新しい。
ハウステンボスの場合は、地元の市長さんが3回も嘆願に来られて。もちろん、頼まれたからといってすべて引き受けるわけじゃなく、我々が持つ経営ノウハウで「やれるか、やれないか」という理論的判断が一つ。そしてハウステンボスの再興は、今までお世話になってきた九州、ひいては日本の観光のためになると判断したからです。地域活性化や地元の雇用問題に少しでも役に立てればいいなと。最後はチャレンジ精神です。周りは「なぜわざわざ苦労をしに......」と心配していましたが、そう言われると、あまのじゃくの血が騒ぐ(笑)。目の前に高い山があれば、危険はあっても登ってみたいと思ってしまう。
前提として、あそこにテーマパークをつくったこと自体が非常に厳しいんです。長崎と佐世保を合わせても約70万人しかない市場に、東京ディズニーランドの1.6 倍の広さがあるという過剰設備投資。テーマパークは天候の影響をずいぶん受けるのですが、また彼の地は雨が多いことに加え、アクセスも悪い。魅力的な集客イベントの経験も浅いなど、まあ「山は高い」。しかし先述したように、バランスを崩している部分がわかれば、そこを修正していけばいいのです。まだ途上ではありますが、僕は、ここを東洋一美しい街、楽しい街といえるような新しい未来都市にしたいと思っているのです。
「世界一の旅行会社をつくる」という夢を
原動力に、挑戦を続ける
現在、H.I.S.は125都市に83拠点(2015年2月時点)を擁する。日本の旅の変革を求め、格安海外航空券の販売からスタートした会社は、世界にも知られる総合旅行企業へと成長した。常に時代に先んじてきた澤田氏の関心事は、今、どこにあるのだろうか。
2008年に「アジア経営者連合会」というのをつくったんです。日本、アジア各国で活躍する新興企業や中小企業の経営者、また日本で活躍するアジアの経営者が集う場で、さまざまなコミュニケーションを通じて相互に助け合い、成長していくのが会の目的です。
欧米からアジアの時代が来る――会を設立したのは、そう考えてのことです。徐々に兆しは表れていますが、僕はもっと本格的なアジアの時代が到来すると予見しています。LCCが登場して安く海外に行けるようになり、これだけ情報が発達すれば、人や経済はもっとボーダーレス化する。その時、人口の多いアジア全体が動き始めれば、新たな大航海時代が訪れるわけです。だから僕は、「どんどんアジアに出てビジネスをしたほうがいい」と、若い人によく言っているんです。
我々としては、インバウンドに力を入れるために、タイとインドネシアにはいち早く旅行会社をつくり、準備を進めてきました。今、タイでは一、二を争う旅行会社になっていますが、次はフィリピン、中国と加速させていくつもりです。
創業当初から「世界一の旅行会社をつくる」という夢を掲げてきました。それが我々の原動力。そして、どうすれば日本のため、世界の未来のために貢献できるか。常にそれを考えるのも原動力になっています。というのも、旅行って平和産業なんですよ。旅に出て、世界を見て、さまざまな人と触れ合って笑顔が生まれていれば、そこに戦争なんて起きないでしょう。裏を返せば、戦争が起こった瞬間に渡航などできないわけで、我々のビジネスは、世界が平和でなければやっていけないということです。まだまだ言っているほど足跡を残せていませんが、我が事業が世界平和につながっていると自覚し、挑戦を続けていきたいと思っています。
TEXT=内田丘子 PHOTO=刑部友康
プロフィール
澤田秀雄
ハウステンボス株式会社 代表取締役社長
澤田ホールディングス株式会社 代表取締役社長
1951年大阪府生まれ。
73年に旧西ドイツ・マインツ大学経済学部に留学。在学中、世界50カ国以上を旅行する。80年、エイチ・アイ・エスの前身となるインターナショナルツアーズを新宿で開業。96年、オーストラリアにThe Watermark Hotel Gold Coastをオープン、会長に就任。同年、スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)を設立。その後証券業などにも参入。2007年、澤田ホールディングス株式会社代表取締役社長に就任。10年、ハウステンボス株式会社社長に就任。現在、公益財団法人東京交響楽団理事長ほか、ハーン銀行(モンゴル)会長なども務める。