南壮一郎氏 株式会社ビズリーチ 代表取締役社長

2015年05月29日

管理職、グローバル人材に特化した会員制転職サイト「ビズリーチ」は、それまで「見つけにくかった」エグゼクティブの求人情報を可視化することで、業界に風穴を開けた。求職者課金型というビジネスモデルも日本初である。創設者・南壮一郎氏は、金融業界、スポーツ業界を歩んできた異色の経歴の持ち主で、ITや人材ビジネスの経験がないなか、新たな価値を生み出した。南氏は足場にこだわらない。常に「価値ある事業創出」「面白いこと」にチャレンジする生き方を信条とする。若き南氏にとって、ビズリーチもまた一つの通過点。視線の先にあるのは「世の中に大きな影響を与える存在になること」だ。

6歳から海外暮らしをしたことで、
早くに備わった多様性を受容する力と主体性

大学を卒業するまで、南氏が過ごした「日本の学校生活」はわずか5年間ほど。父親の海外転勤に伴い、幼少期より中学生になるまでカナダのトロントで暮らし、早くから、海を越えたさまざまな価値観に触れてきた。人それぞれの差異を許容する力、主体性を持つことの大切さを十分に知る南氏のバックボーンは、そんな育った環境にある。

当時、父はヤマハ発動機に勤めていて、海外の新規市場をゼロから開拓する仕事をしていたんです。常に視線がグローバルな父親は、ことあるごとに「壮一郎、世界は広いぞ」というのが口グセ(笑)。移住したトロントの下町には日本人が全然いなかったため、通い始めた現地小学校のクラスでは、唯一のアジア人で、大半が白人という環境にいきなり身を置かされました。子どもながらに周囲と自分との"違い"を肌では感じていましたが、まだ小学生でしたので差別という感覚のものではありませんでした。ただ小さい頃からさまざまな人種や価値観が渦巻く環境の中で生活するうちに、主体性や意志を持ち、自分らしく存在感を出していけば、どんな場所でも生きていけるという見えない自信や精神的タフさを自然と体得させてもらえたと思います。

加えて両親の教育方針も、間違いなく僕の人格形成に大きな影響を与えました。そもそも世の中には多様な価値観や考え方が存在することに気づかせてくれた上で、自分自身の意志を持ち、それを人に伝えることを求めてきました。父も母も、話を聞きながら最後は「自分のことは自分で決めなさい」「やりたいのならやってみなさい」なんですよ。毎年、元日になると、家族全員が食卓に集められ、父親から1枚の紙が渡されて、「今年は何をやるの? どういうふうに実現するの? いつまでに達成するの?」と聞かれ、目標設定をさせられるような家庭環境ですから(笑)。

両親のおかげで、僕は、どんなことに対してでも躊躇せず、自然に挑戦できるようになったのだと思います。挑戦好きというか、逆風が吹くなか事を成し遂げていく路を辿ること自体に燃えるんです。社会人になってからも、商売の本質は課題発見と課題解決にあると思っているんですが、幼い時分から、課題や目標に対して真っ直ぐ突き進む素直な突破力を養えたことは、僕の財産になっていますね。

帰国したのは中学1年生の夏休みで、以降、高校を卒業するまで地元の静岡県で過ごす。当時、「田舎に帰国子女などほとんどいなかった」から、南氏を取り巻く環境は一変。見るもの聞くものすべてにギャップがあった。日本そのものに順応するまで、一定の時間を要したという。

帰国直後は、まるで映画『スター・ウォーズ』のワンシーンを見ているようで、まったく「知らない星に来た」感覚でした。日本の学校の仕組みを知らないから、驚くことばかり。制服はそろいの学ラン、髪型は丸刈り、靴は真っ白と決められ......意味がわかりませんでした。最たるものは体操着で、名前やクラス番号を記したゼッケンが誰の胸にも縫い付けられている。「何だこれは。囚人か」と(笑)。学校では、しばらく僕は"客寄せパンダ"状態で、休み時間ともなると学校中の人が集まってきて、誰かが代表して「南くん、何か英語の言葉をしゃべってみて」などと恥ずかしそうに言うわけです。

最初はそんな人気ぶりに僕も気分をよくしていた部分もありましたが、そんなバラ色の毎日は長くは続きませんでした。当たり前だとは思いますが、新入りが目立つことに対して、いい顔をしない人たちが出てくるわけで、そんな先輩たちに、校舎裏などに呼び出され、えらく可愛がってもらったことも何度かありました。今思い返すと、集団でボコボコにされても、廊下で蹴りを入れられても歯を食いしばりながら、めげずに学校へ行き続けたことで、いつの間にか周囲に認められるようになっていったんです。その過程で学ぶことは多かったし、改めて価値観というものは多様であること、そして、変化に柔軟に対応するアジリティの大切さを知ることができました。

そんな中でも、僕の心の大きな支えとなったのは、カナダ時代から続けていたサッカーでした。スポーツはやるのも見るのも、何でも好きですが、結局、日本での中学、高校、そしてアメリカの大学時代まで体育会のサッカー部に所属し、無我夢中にグラウンドを駆け回っていました。「スポーツに国境なし」とはよくいわれることですが、本当にそうで、言葉や価値観の違いを超えた男同士の勝負の世界を通じてできた仲間たち、そして彼らとの友情が、環境が変化するなかでの自分の一番の支えとなりました。スポーツって、やっぱりいいですよね。

アウェーからのスタートを好む
抜きんでたチャレンジ精神

静岡県内有数の進学校に通っていた南氏は、周囲同様、進路として東大などの一流大学への進学を目指していたが、途中、その矛先をアメリカへと変えている。きっかけは、ある雑誌で「世界の大学ランキング」という特集記事を目にしたこと。驚くことに、そのランキングで上位に並ぶのはアメリカの大学名ばかり......持ち前のチャレンジ精神がうずいたのである。「考え直せ」と断固反対する高校の教師陣を尻目に、南氏は自らの力だけで準備し、結果、アメリカの名門校であるタフツ大学に進学した。

ずっとスポーツをやってきたからかもしれませんが、尋常ではないくらいの負けず嫌いなんですよ。どうせ大学へ進学するなら、一番の大学に行ってみたい。ランキングを見たら、東大が40位くらいと書かれていたので、それならばアメリカの大学にいけば、少なくとも自分の高校では一番だと考えました。今考えると大変幼稚な発想ですね(笑)。父親にアメリカの大学に進学したいと早速相談したら「自分のことは自分で決めなさい」と応援してくれました。ところが、担任をはじめ高校中の先生たちは大反対。「そんな夢みたいなことを言っていないで、受験勉強をしろ」「留学したければ、東大に入ってから留学すればいいじゃないか」と。四面楚歌とはこういう状況をいうのだと思いました。

でも結局、僕の気持ちはまったく揺るぎませんでした。誰も何もしてくれないし、学校にも情報があるわけではないので、自分で行動するしかありませんでした。1994年で、インターネットがなかったので、アメリカの大学受験に関する本で調べたり、父親の友人たちにいろいろと教えてもらったりしました。アメリカの大学へヒアリングのために深夜に国際電話をかけまくった後は、電話代を見た親がびっくりしていました。留学雑誌で見つけた東京にあるアメリカの大学進学塾に、青春18切符を活用して、静岡から毎週末往復12時間かけて通ったりもしました。高校3年の夏休みには、単身で渡米して、スタンフォード大学とUCバークレー校のキャンパスツアーに参加しました。目の前に広がる夢のような世界を見て「自分は間違っていなかった。ここに来たい」と強く思ったことをまるで昨日のように覚えています。さまざまなドラマがありましたが、最終的にはタフツ大学への入学が決まり、自分だけの手作り受験を無事終えることができました。僕が当時得たものはアメリカの大学への進学切符だけではなく、自らが考え、自らが行動することによって、自らが望む機会を勝ち取ることができるという大きな成功体験でした。

ただ、いざ大学へ入学すると、また「違う星に来た」状態が続きました(笑)。いくら帰国子女だといっても、自分の英語力なんて、日本に帰国した中学1年生レベルのままで止まっているわけです。考え方も、行動パターンも、すっかり日本人になっていましたし、子どもの頃と違って、人種差別なんていうものも肌身にしみてわかります。アメリカのエリート層の中では、アジア人は完全なるマイノリティ...... 。どうしたら、この環境において、認めてもらえるようになるのだろう。どうしたら、この「星」のど真ん中を堂々と歩けるようになるのだろう。自分の中で導いた答えはシンプルなものでした。勉強にもスポーツにも全力投球し、自分の能力がどこまでこの環境で通用するか思いっ切り試してみる――。

大学でもまた、サッカーに支えられました。推薦入学の猛者に囲まれながら、練習に励んで1軍のレギュラーの座を勝ち取り、大学評議会にも立候補し、キャンパス内の選挙活動を経て学生評議委員にも当選。次第に、僕は新しい星の住人たちの輪の"真ん中"に歓迎されるようになりました。

思い返すと、いつも自分はアウェーからのスタートなんですよ。でも実は、どこかでそれを好んでいるというか、その状態から這い上がるドラマを求めている気がします。「どれだけ面白い章をどれだけ多く創れるのか」を常に意識しながら、人生という本を書いているところがある。だから、思い切った挑戦をいとわないんでしょうね。

大学では数量経済学部と国際関係学部の2つの学部を卒業した後、南氏はモルガン・スタンレー東京支社の投資銀行部に入社。直観的に「面白そうだ」と飛び込んだ世界だったが、実際にこの時代、外資系投資銀行は勢いに乗り始めていたから、南氏は十分刺激的な環境で働くことができた。

社会人スタートが投資銀行業界でよかったと思っています。M&Aアドバイザリー業務に携わっていたんですけれど、当時の日本では、外資系投資銀行がようやく勢いが出てきたタイミングでした。業界も会社も、ものすごい成長環境にあり、まさにスタートアップそのものでした。仕事は内容的にも体力的にもかなりハードでしたが、20代から30代の先輩たちとともに、重要な案件やありとあらゆる経営者に関われた経験は、間違いなく僕の社会人としての土台をつくってくれました。高い志を持った職場の先輩たちは優秀で、主体性を持った働き方というものを間近に見ることもできた。社会人として、自分が目指すべき高い基準値が自然と確立されたのです。

その後、僕はモルガン・スタンレーを離れ、あるM&A案件のお客様であった香港・PCCWグループに誘われ、彼らの日本支社の立ち上げに参画し、日本やアジア、アメリカのIT企業への投資業務を担当してきました。ただ1年もするとITバブルが弾け、驚くほどに投資案件が枯渇してしまったのです。

ちなみに、僕は、20代はキャリアにおける修業期間だと捉えていたので、自分に負荷がかかるような成長環境に身を置かない限り、自分に対して納得ができない。何もない状況だからこそ努力をして前進するし、本当に挑戦ができない環境であるならば、環境そのものを変えてしまえばいいと考えていました。当時、学生時代にスポーツの仕事をしてみたいと考えていたことを思い出し、結果的には、金融の世界を離れ、スポーツの世界へ飛び込みました。それが僕の生き方なんだ、という根拠のない自信とともに。

夢、そして大義名分を持つ大切さ。
学び得た本質をDNA に起業

南氏が楽天イーグルスの創業メンバーに加わったのは2004年9月。プロ野球再編問題が勃発した直後だ。新たなプロ野球チームの設立に興味を持った南氏は、さまざまな縁を辿り、最終的には、楽天の三木谷社長に「新球団を創りたい」と直談判したのである。それから3年間、チーム運営やスタジオ事業の立ち上げなどに奔走。ここで得た成功体験、そして学び得た"事業の本質"は、南氏にとってかけがえのない財産となった。

新規参入が11月に決まってからは、もう目の前のことに必死で。当時球団の創業に関わっていたメンバーは10名ほど。ドラフト会議資料や選手の契約書作成、キャンプ地の選定、シーズンの日程調整、2軍の立ち上げ、スタジアムや試合運営マニュアル作成など、いくつものプロジェクトが同時進行していましたから。一人ひとりの主体性にすべてがかかっていました。あの時の緊張感はたまらなかったですね。自分たちがやらなければ、誰がやるのか。3月末の開幕という期限も決まっているわけで、選手もいない、スタジアムもない、人もいないとしても、弱音を吐く時間すらない状況でした。しかし、次第に、みんなの中で自然と「自分たちがプロ野球の新しい歴史を創るんだ」という想いが育ち始めました。開幕に向けて準備が進むにつれ少しずつですが、東北中の方々から支持を得ているのを実感できるようになった。例えば、町中を歩いている幼稚園児が、楽天イーグルスの赤い帽子を被っているのを見た時なんかは、嬉しくて涙が出そうになりましたし、僕たちに見えない勇気を与えてくれました。そして、不眠不休の5カ月間の結果、僕たちは無事プロ野球のシーズン開幕を迎えることができました。あの時見た、真っ赤に燃えるスタジアムの残像は、僕の一生の宝物です。

プロ野球球団の創業経験から得たものはいくつもありますが、事業創りに対する真摯な姿勢を体感したことは僕のその後のキャリアを大きく変えました。三木谷社長は当初から強いチーム、健全経営、地域密着、この3つを柱に新球団を創ることを掲げ、東北地方を、ひいてはプロ野球界を元気にし、野球を通じて人々に感動を与えたいという大義名分を堂々と発信していました。ただ僕は、愚直に数字やお金だけを追いかける金融の世界で純粋培養されてきた人間でした。ですので、最初にこのような崇高な理念やビジョンを聞いた時、正直、どこか綺麗ごとのように感じていましたし、夢物語を堂々と語ることに対して違和感、いや恥ずかしさを感じていました。

でも僕は目の前で見てしまったのです。まさに三木谷社長が描いた夢が少しずつ実現していく様を。見るだけではない、身をもって、肌で感じ取ってしまったのです、世の中が本当に変わっていく様子を。三木谷さんには何度も「事業というのは、ただ儲けるだけじゃだめなんだ。社会をどのように変えたいのか、どのようにインパクトを与えたいのか。事業創りを通じて歴史を創ってみろ」と言われました。そして、夢物語に思えるようなことでも、志をともにした最高の仲間と力を合わせれば、不可能はないことも体感しました。「最高の仲間と歴史を創ろう」。この考えが今、ビズリーチのDNA にもなっているんです。

さらに、南氏は楽天イーグルス時代に、次なる事業の着想も無意識に得ていた。インターネットだ。球団が打ってきたさまざまな新施策の中でも、ITを活用したものが事業を大きく改善させるのを目の当たりにし、「僕たちの時代の産業革命であるインターネットと一度向き合ってみたい」と考えるようになったのである。それを起点にビズリーチを創業したのは、南氏が32歳の時だった。

次の仕事を選ぶ過程において、僕は2つの大きな軸を持ち始めました。「インターネットの力を活用すること」、そして「世の中の意義ある課題を解決すること」。せっかくインターネットというある種の産業革命が自分たちの時代のど真ん中で起こっているならば、その本質を理解してみたいと感じていましたし、本当に知りたいならば事業として活用してみればいい。ですので、最初から日本の新しい働き方を創り出してみたいという観点ではなく、インターネットの力で世の中をどう変えられるか――それを探究するために会社を創ろうと思っただけなのです。

そんな中、2009年4月に、プロフェッショナル人材に特化した転職サイトを立ち上げた背景には、僕自身が感じた猛烈な"不便"がありました。楽天を退職してから起業を決断するまでは、僕自身、次の仕事探しのため、普通に転職活動をしていたのですが、あまりにも仕事探しのプロセスが非効率、かつ不透明だったんですよ。ビジネスプロフェッショナル向けの求人情報は、どこにあるのかわからない、そういう人材が市場に何人いるのかもわからない。ヘッドハンターやたまたま相談した知人など、人を介してしか情報が得られなかった。人生でもっとも大事な決断をしようとしているのに、この時代にこんなアナログで、こんな不便なことがあってもいいのか。それが僕の率直な感想でした。

自分に適した選択肢や可能性がもっとあるはずなのに。同時に、僕のような人材を求めているがお互いに接点を持っていないだけという会社はもっとあるはずなのに。日本の仕事の市場はまったく可視化されていない。それって個人、企業、ひいては社会にとっても機会損失じゃないですか。誰にとっても「もったいない」。であれば、誰しもが得をするプラットフォームを自分でつくればいいのではないか。個人は自己の市場価値や選択肢を明確に把握した上で、自身のキャリアを主体的に決めていけるような場。企業はより多くの候補者の中から自分たちが求めている人材を効率的に選び出せる場。つまりそれは、「我々の時代の新しい働き方」を支えるプラットフォームの提案でした。そう考えた時に、この事業をやる大義名分はあると腑に落ちたのです。

別の事業領域も視野に入れ、
世の中の選択肢と可能性を広げていく

創業してから6年。ビズリーチは46万人の会員(2015年5月現在)、3300社の企業を日常的にマッチングするサービスへと成長した。事業領域も、プロフェッショナル人材のみならず、さまざまな新規サービスを通じて20代の若手層やキャリア女性にまで広げていき、たった2人で始めた会社も520名の組織へと成長した。が、南氏にとってはまだ一里塚。「インターネットの力で、世の中の選択肢と可能性を広げていく」ために、今日も走り続けている。

この6年間を振り返れば、大きな志を持って集まってきた仲間たちとともに、自分たちが描きたい社会のあるべき姿を探ってきた期間でした。そして今、改めて感じているのは、日本の新しい時代の働き方を支えるためにも、仕事における選択肢と可能性をさらに可視化していくことです。

それを実現するためには、透明性が高く、中立かつ公平な市場ができることと同時に、採用に対する企業の新しい文化を創り出さなくてなりません。「ダイレクト・リクルーティング」という、世界ではごく当たり前の採用手法、採用文化を日本でも普及させることが大きな一歩となります。企業が、優秀な人材をより早くより安く採用しようと、主体的に動き出し、自らの採用力を取り戻すことを僕らは求めていきたいのです。

本来、働き方にまつわる選択肢や可能性はもっと多様であるべきだし、そのためには、日本の求職者も採用企業も自分のためにもっと主体性を持ってもらいたいのです。そのお手伝いを僕らがしていきたい。日本の働き方の歴史を振り返った時に、「21世紀の新しい働き方を支えたのはビズリーチだよね」と言われるように。

そして、いつかこの仲間たちで培ってきたものを生かして、世界に挑戦したい。日本からでも、世界に通用するインターネットサービスをつくれることを示したいんですよ。日本からは、トヨタやソニーのような世界的なメーカーが生まれています。IT領域においても、日本からグローバルに通用する企業が生まれてもおかしくありません。プロ野球の時もそうでしたし、ビズリーチでも6年間言い続けてきましたが、世の中にできないことはないのです。

価値あることを正しいやり方で、事業として創造していく。その意義と喜びを教えてくれたのは、三木谷さんでした。僕だけではなく、あの時の楽天イーグルスの創業メンバーは皆、あの時、あの場所で味わった、ある種の狂気を通じて、「世の中に不可能はない」という合言葉を胸に"覚醒"したのではないでしょうか。ビズリーチという会社を通じて、今度は、僕が集まってくれた仲間に対してそれを提供する番だと思っています。大きな志を持ちながら挑戦し続ける環境の中で、自分自身が成長する楽しみを味わってほしいんです。ともに戦う仲間たちを鼓舞し、新たな姿へ覚醒させること。これもまた僕の仕事の本分です。

TEXT=内田丘子 PHOTO=刑部友康

プロフィール

南壮一郎

株式会社ビズリーチ 代表取締役社長

1976年生まれ。
1999年、米・タフツ大学を卒業後、モルガン・スタンレー証券に入社。2003年に独立。2004年、楽天イーグルスの創業メンバーとなる。その後、株式会社ビズリーチを創業し、2009年4月、管理職・グローバル人材に特化した会員制転職サイト「ビズリーチ」を開設。2012年、ビズリーチのアジア版「RegionUP」(リージョンアップ)を立ち上げ、2014年、若手向けレコメンド型転職サイト「careertrek(キャリアトレック)」を開設。世界経済フォーラム(ダボス会議)の「ヤング・グローバル・リーダーズ2014」に選出。2015年、無料のクラウド型採用サービス「スタンバイ」を開設。