石田秀輝氏 合同会社地球村研究室 代表社員、東北大学名誉教授

2015年03月13日

厳しい地球環境制約のなかで、人々が心豊かに暮らせるライフスタイルとテクノロジーの在り方を追求する「ネイチャー・テクノロジー」。2000年代はじめより、石田秀輝氏が提唱し続けている新しい概念だ。自然や生き物が持つ低環境負荷かつ高度な機能に学ぶネイチャー・テクノロジーは、これまでにない新たな技術のかたちとして、国内外から広く注目されている。地球環境という視点に立ち、研究・啓発に尽力する石田氏を突き動かしているのは、「子どもたちの将来を絶望的な世界にしたくない」という"大人としての責任感"だ。

早くから身についていた
自分の気持ちに正直なスタンス

幼い頃から自然界に惹かれていた石田氏は、「勉強などせず、ひたすら遊んでいた」そうだ。とりわけ夢中になったのは、工作や"光る石"を集めること。既成の概念に捉われず、興味・関心のあることにまっすぐ突き進む生き方は、子どもの時分より変わっていない。

キラキラ光る石がたまらなく好きでね。集めてきては、「どうしてこんなきれいな色になるんだろう」とか、頭はいつもそんなことでいっぱい。だからというか、僕は小学校3年まで読み書きができなかった。それがいい、悪いという概念さえ芽生えなかったということは、親が「勉強しろ」とはいっさい言わず、自由にさせてくれたからでしょう。

そもそも、両親はかなりの放任主義で、「中学校までは出してあげるけど、あとは自分で頑張りなさい」という感覚だったので、僕は、ある意味たくましく育ったわけです。早くに自立し、高校生になって以降は、自分で稼ぐために通算50種類ほどのバイトをしたでしょうか。少々変わったところでは、テストドライバーや墓掘りなんていうのも。働かなきゃいけないから忙しいし、始めた弓道にも夢中だったから、高校の授業なんて出やしない。褒められた学生じゃなかったです。

ただ、鉱物が変わらず好きで、僕は地球物理学者の竹内均先生のもとで学ぼうと東大を受験し、一応合格はしたのですが......当時は学生運動が盛んな時代でね。合格したのは安田講堂が落ちた翌年。空気としては、社会構造に対する不安、疑問が色濃く、世を悲観するムードに満ちていました。何だか入学する気になれなくなって、結局、鉱物研究に強い、地方の山口大学に進学したのです。もっとも、当時交際していた彼女が同じ大学に受かったから、というのが直接的な理由ではあるんだけど(笑)。女性を追いかけているほうが、僕にとっては心豊かだったんですよ。

進学してからも「食うためによく働く日々」だったが、途中、休学して世界を放浪するなど、石田氏は心の赴くままに時を過ごしてきた。就職は頭になかったが、修士課程修了後、教授の勧めに従って入社した先が伊奈製陶(のちのINAX、現LIXIL )である。聞けば、採用試験に臨むまで、同社が「何屋さんなのか全然知らなかった」というから、これまた石田氏らしい。

旅費も弁当も出してもらえるというので、それにつられて入社試験を受けたんです。当時は、社名が伊奈製陶の時代で、「陶」を「糖」と勘違いしていた僕は、砂糖屋さんだと思っていたくらいで......就職がままならなかった第一次オイルショックの翌年の話ですから、競争率はけっこう高かったはずなのに、結果、受かっちゃいまして。

新入社員研修に半年間もかけるようないい時代でした。あちこちの工場を回って研修を受けるんですけど、佐賀工場に行った時のこと。同期たちがつまらない酒の飲み方をするものだから、僕、「芸者でも揚げるか」と、近くにある嬉野温泉にみんなを連れて行ったんです。同期は皆優秀だったけれど、僕のように早くから働いて"社会トレーニング"されていないから(笑)、よほど新鮮だったのか、帰りの交通費がなくなるまで通ってしまったという......。結果、僕の最初の配属先は、院卒にもかかわらず、外装湿式タイルを製造する小さな工場でした。不始末の責任を取らされたというか、いわばお仕置だったんでしょうねぇ(笑)。

葛藤しながらも、どんどん増えていく
「やらなければならないこと」

しかし、この工場で石田氏は現場を知り、"目についた課題"を解決するべく、早々に力を発揮する。「問題がある」と感じた時、自律的に事にあたる石田氏のスタイルは、ずっと一貫したものがある。

工場運営の質が、あまりに低かったんですよ。当時の製造現場は、まだ経験値やカンだけに頼っていた時代で、それはそれで学ぶことも多かったけれど、システム化されていないから、例えば製品の歩留りの悪さ、製造体制の非効率さがすぐに目についた。何か失敗があっても同じことを繰り返すわけで、それでは働いている人たちが報われないでしょう。

「このくだらない事態をくだるようにしよう」と、仕組みづくりに動きました。歩留りを上げ、タイルの品質を上げるにはどうすればいいか。夕方5時には仕事が終わるので、そのあと、勝手に実験を繰り返したりしながら......。本気でやろうと思うと、会社からの補助だけでは追いつかないので、時には自分の給料やボーナスをつぎ込んで実験装置をつくったりもしていました。

僕自身もたくさんの失敗をしましたが、結果、工場はガラリと変わりました。そうした改善が評価されたのでしょう、入社5年目から会社の環境戦略や技術戦略に携わり、以降、いろんなかたちで研究室を持たせてもらうようになったのです。

僕の場合、いつも先の課題が見えてしまうというか、そこに対して「取り組むべきこと」が、どんどん増えていくのです。加えて、課題に対する解決の糸口も見える。けれど、頭に浮かぶソリューションが本当に近道なのだろうか、僕の勉強や知恵が足りていないんじゃないか――いつも葛藤してきたように思います。それは今も続いているんですけどね。

石田氏が明確に「地球環境という視点に立つ」ことを意識したのは、90年代初頭だ。伊奈製陶がINAXと社名を改めるにあたり、新生「INAX」の経営戦略を策定するプロジェクトの一員として特命を受け、外部のコンサルティング会社とともに2年間、経営全般についての知識をハイスピードで獲得したことが契機となった。ここから石田氏は、ものづくりのパラダイムシフトに向けて活動するようになる。

まる2年間、社長室直轄のかたちで、コンサルタントたちとプロジェクトに臨みました。組織論や人材論、お金の動きなどを学び、企業経営とはどういうものか、僕の知識がぐんと広がった時期です。それに伴って、社会に対する見方がずいぶん変わったのです。

それまで、一企業の環境戦略として省資源、省エネルギーばかりに目がいっていたのが、広くものが見えるようになったことで、僕が本当にやりたいのは、「地球環境の視点に立っていろいろと考えることなんだ」という方向性が明瞭になった。地球環境を考えれば、もはや、単にエネルギー効率を上げるだとか、そういうレベルの問題に取り組んでいる場合じゃないと気づいたわけです。

生産活動や材料開発において、循環型社会を実現するものづくりの概念「クローズド生産システム」を提唱したのが92年。INAX内に基礎研究所が新設され、"言い出しっぺ"として所長に就いたこの時期が、僕の起点でしょうね。焼かないセラミックスを考案したり、建物を包帯のように巻けるセラミックスはどうだとか、当時としては、わけのわからないことを言って、社長からは「社会貢献もいいけれど、お前はいつになったら会社に貢献するの?」なんて言われたものです(笑)。

自然界に学ぶ
ネイチャー・テクノロジーを提唱

深刻な環境問題を抱えるなか、人間は科学技術に頼ることをやめるべきなのか。しかし、人間が一度得た利便性や快適性を捨てるのは難しい。「これからの人々の暮らしを豊かにする技術は何か」「環境と経済の両立は可能なのか」――模索を続けた石田氏が、次に提唱したのが「人と地球を考えた新しいものづくり」だ。これが、ネイチャー・テクノロジーの原型である。

90年代後半からは、テクノロジー・オリエンテッドではなく、生活者をちゃんと見つめ、そこに必要な新しいテクノロジーの概念をつくろうと、今度は空間デザイン研究所を新設し、研究に臨むようになりました。

そこで見えてきたのが、自然に学ぶテクノロジーです。例えば、カタツムリの殻は汚れがつきにくく、それを参考にすれば汚れない外壁材をつくることができる。また、シロアリに学んで土でつくる壁や床材は、無電源にしてエアコンの代わりになる。などという具合に、自然は驚くような仕組みやシステムを有しており、学ぶべきことが多々あるのです。会社で自然探検隊を組織して研究に取り組み、のちに、こうした自然界が持っている高い機能を模した技術をネイチャー・テクノロジーと名付けたわけです。エネルギーや資源に負荷をかけないという点において、循環型社会を実現するのに間違いなく役立つ技術です。

研究所での成果もあり、INAXは環境先進企業として評価されるようになったのですが、でもそれって、ほんの少し他に先んじているだけの話。僕の物差しからすれば、限界に達しようとしている地球環境に対して、社会変化が遅れていることに強い焦燥感を覚えていたのです。やるべきことが見えているのに、十分な動きが取れない自分にも焦る気持ちがあった。ネイチャー・テクノロジーの研究に専念しよう、普及に務めようと考えるようになり、50歳を機に、25年間お世話になったINAXをあとにすることにしたのです。

取締役CTO の要職にあった石田氏の退職は、周囲を驚かせたが、04年、東北大学大学院教授に就任、その活動の足場を移した。翌年には「ネイチャー・テック研究会」を発足し、並行して多くの論文や著書を発表、社会人や子どもに対する環境教育にも取り組むなど、精力的な活動を続けてきた。

取締役が退職するというのは、世間的には奇異に映ったようです。「何で役員が辞めるの。ケンカでもしたのか」と、周りがうるさくて(笑)。もとより僕は、肩書や立場などにまったく固執しないし、「やるべきこと」ができる次の舞台を求めてのことです。ちょっと偉そうに言えば、僕は多少なりとも成長してきたし、思考回路もどんどん変わってきた。その変化に舞台が追い付いてくれないと、踊ろうと思っても存分に踊れないじゃないですか。そんな感覚なんですよ。

東北大学にはまる10年いましたが、最初の頃は、ネイチャー・テクノロジーといっても僕が吠えているだけだった。でも、一生懸命やっていると共鳴者が増え、広く研究が進むようになりました。数年前にはやっと一つの学問として認められ、今では80人を超える研究者がネイチャー・テクノロジーに関わる研究に取り組んでいます。いろんな企業も触手を伸ばし始めているし、これからどんどん広がっていくでしょう。

自然観をベースにした
新しい文明を創出するために

一定のレールを敷いたところで、石田氏はまた次なる舞台を求めて動く。14年、自然が色濃く残る沖永良部島(鹿児島県)に居を構え、地球村研究室を創設。「心豊かな暮らし方」の上位概念である「間抜けの研究」を開始した。

これまでの研究で、心豊かに暮らすには、依存型(外部化)から自立型(内部化)のライフスタイルへの移行が必要であることは明白になっています。理解すべきは、この依存と自立の間に存在する"間"で、心豊かな暮らし方の現実解を求めるのにもっとも重要な部分だと考えています。そこに求められるのは「環境に負荷はかけないが精神的には満足」というテクノロジーで、そのかたちを当たり前にしていくことが、僕の次のテーマです。

その研究の場として、選んだのが沖永良部島。結局のところ、僕がやろうとしているのは自然観をベースにして新しい文明をつくることなので、そうなると、圧倒的な自然観を持つ地に行かないと進まないでしょ。文献など、読めるものはすべて読み、離島もあちこち巡りましたが、自然観が暮らしのなかに濃く残っているのが沖永良部島だったのです。

そもそも、日本人は先進国で自然観を持っている稀有な民族なんですよ。その素晴らしい文明を崩壊させないために、僕は、日本をもっともっと徹底的に考えたい。エネルギー、資源、生物多様性、気候変動などといったリスクは、このまま何もしなければ2030年頃に限界に達し、文明崩壊の引き金を引くことになります。そんな絶望的な世界を子どもたちに見せたくないでしょう。小学生たちを教えているとね、皆目がキラキラしているわけ。その子どもたちが大人になっても、変わらず笑顔でいられるようにするのが、今の大人の責任じゃないですか。根っこにあるのは、その一点なんですよ。

「地球環境問題とは、間違いなく人間活動の肥大化である」と、石田氏は語る。利便性を得るために大量のエキルギーや資源を使う、その繰り返しが幾何級数的な環境負荷の増大となり、様々なリスクを生み出してしまった。石田氏が生涯をかけて取り組もうとしているのは、人々が心豊かに暮らすことを担保しながら、人間活動の肥大化を縮小するという相反した命題に解を出すことだ。

その解を求めるには、従来の価値観を変えなければならないと、大人たちも本能的に感じ始めています。車より自転車がいいとか、モノを修理して使うとか、あるいはフリーマーケットに幸せを感じるとか、潜在的にはライフスタイルに変化の兆しが出ています。僕のやっている仕事は、こういう動きをつかんで、わかりやすく、自立型のライフスタイルとテクノロジーをセットにして市場に投入すること。僕が考えると、突然、水のいらない泡のお風呂なんかができちゃって理解されにくいので(笑)、企業に働きかけ、新しいものづくりやビジネスの創出に向けてトレーニングを重ねているところです。

一方で今、閉塞感に包まれている人たちには、「こういう足場でものを見ると、爽やかに見えますよ」ということを伝えていくのも僕の仕事。そのための教科書をつくっているような感覚です。そう悲観した話でもなく、僕を超える予備軍はたくさんいると思っているので、その人たちが遠回りしなくて済むよう、教科書をつくり上げたいのです。

思えば、90年頃に地球の循環が大切だということに気づいてから、いつも先が見えてしまって焦燥感にかられてきました。今もまた、次のステージに入っていますが、「さらに次」が見えなくなれば、僕は幸せだと思う。その時点が到達点、完成形ということですからね。

TEXT=内田丘子 PHOTO=刑部友康

プロフィール

石田秀輝

合同会社地球村研究室 代表社員 東北大学名誉教授

1953年岡山県生まれ。
1978年、伊奈製陶株式会社(現LIXIL)入社。取締役研究開発センター長などを経て、2004年から東北大学大学院環境科学研究科教授。14年3月、同大学を退官し、現職。
専門は地質・鉱物学をベースとした材料科学、1992年より「クローズド生産システム」を、1997年から「人と地球を考えた新しいものつくり」を提唱、多くの実践経験をもとに『自然のすごさを賢く活かす』ものつくりのパラダイムシフト実現に国内外で積極的に活動している。ネイチャーテック研究会代表、サステナブル・ソリューションズ理事長、ものづくり生命文明機構理事、アースウォッチ・ジャパン副理事長ほか