柳川 範之氏『企業には競争、個人には機会を。 再チャレンジできる社会へ』
「40歳定年制」の提唱から5年
中村 私たちは「100年キャリア時代の就業システム」において、職業人生が長期化していくなかでキャリアの自律が重要だと考えています。
先生は経済学者として、大局的な視点からさまざまな働き方の提言をされてきました。その1つである「40歳定年制」の提唱はいろんなところで議論を巻き起こしました。
柳川 40歳定年制を提唱した当時は、同じ会社にいれば一生安泰だと思っている人がかなりいました。会社にずっといたらだめなんですか、とよく言われた。しかしその後に国内の大企業が経営危機に陥るなど状況も変わり、人々の認識が大きく変わりました。
さらに100年時代のライフシフトの話になり、寿命が長くなると会社が安泰でもセカンドキャリアを考えなければいけないという認識も強まりつつあります。
ですから、ずっと言い続けてきた私としては皆さんが描いている100年キャリア時代の就業システムに違和感はありませんし、こういう議論ができるのはとてもうれしいというのが率直な感想です。
中村 40歳定年制を提唱されさまざまな議論を経た現時点で、長い人生でキャリアをつくっていくのに、特に大事だと思っていることはなんですか。
柳川 今の段階で私が大きな課題だと考えているのは、キャリアトランジションの能力をどのようにして身につけるかということです。多くの人が圧倒的に不足しています。
リカレント教育などに関心が向いていますが、実際はまだ何をやっていいのかわからないし、どうすればできるようになるかもわからない。
もう1つはマインドセットの問題です。日本的な仕組みが続いていかないことを多くの人が本当に認識するかがとても重要だと思います。
能力の言語化からはじめよ
中村 キャリアトランジションに必要な能力を身につけていくためには、個人、企業、社会、どのレイヤーがどう変わっていけばいいでしょう。
柳川 やはり一番欠けているのは学ぶ場所であり、学びの仕掛けをどうするのかということです。
学校や大学が期待されていますが、現状では社会人教育の授業を受講しても次のキャリアステップや再就職につながるとはとても思えない。社会人は年齢や経験によって学びのニーズが多様です。個人が学び直そうと思わなければ学校とか仕組みだけつくっても回らないし、企業がそういうものを受け入れたいと思わなければ回らない。
個人、教育、企業は3つセットですが、どこが一番カギになるかと言えばやはり教育の部分です。
中村 教育を変えていくには何が必要ですか。
柳川 教育するにしても、どういう能力が必要なのか中身がわかっていないことが一番の問題です。本当はもう少し企業側がニーズを出していくべきなのですが、企業がどんな能力を要求するかについて十分な検討が行われていません。
社内の40代の中間管理職に必要な能力とは何かと聞かれても、明確に語れる人はほとんどいない。リーダーシップがある、みんなと仲良くやれる人といった抽象的な要件はあっても、当社の何々部署の課長にはどんなスキル・能力が必要なのか、明確に整理されている会社はほとんどありません。
うがった見方をすれば、必要な能力を言語化できないことを言い訳にして、能力の明確化ができていないという気もします。
中村 日本のメンバーシップ型組織のなかでは、あの人と一緒であればモチベーションが上がり、自分の強みを発揮できるというように人材の価値が他者との相互関係のなかで決まるという特徴があります。
たとえば社内でハレーションを起こさずにうまく物事を進めることができる人がいても、その能力が何かは暗黙知になっていて共通言語化されていません。やはり言語化する努力が必要です。
柳川 経済学者はよく企業特殊的能力という言葉を使います。つまりその会社でしか通用しない能力・技能があり、長年それを蓄積することで能力が発揮できる、それが日本的経営の強みの1つという議論があります。
でもそれはあまり正しくないと思っています。
多くのスキルはある一時点で切ると、その会社でしか通用しませんが、本当は、別の組織でも同じように特殊技能を発揮できるのです。その別組織への応用力をもてるかが大事なのです。
社内の中間管理職の能力定義の話に戻すと、結局、能力に対する見方を変えていく必要がある。全員がずっと同じ会社に居続けることを前提にした評価システムを切り替えていくことが一番大事だろうと思います。
企業は「囚人のジレンマ」に陥っている
中村 そうですね。その会社が今のままでいいと思うと、何かを変えていくインセンティブは働かないのですが、100年キャリア時代には個人や社会全体としては人材の最適配置が必要です。企業を変えるにはどうしたらよいでしょうか。
柳川 やはり会社は経営にプラスにならないとやりません。ですからプラスになると思われるようにもっていくこと大事です。
もしかしたら社会全体にとってはプラスになると理解していても、短期的には会社にプラスにならないという「囚人のジレンマ」に陥っている可能性もある。あるいは将来に対する十分な情報がないために気づいていないかもしれない。そうであれば、学者・研究者は企業と個人にプラスになる未来の可能性を提示することです。
人事制度改革も短期的にはコストがかかるかもしれないが、それによって優秀な人材が入ってくるかもしれない。あるいは目に見える成果が出なくても、将来に向けて変えていかないと経営も大変なことになるという認識が強まっていけば経営者はある程度損をしてもやろうとするかもしれません。
また、やりたいと思っても自社だけではなかなかできない場合、多少政策的に促していくこともあり得るし、その両方の取り組みが大事です。
政策的な仕掛けには3つの方向性
中村 政策で促していくためにはどうすればよいですか。
柳川 政策的に後押しするための仕掛けは3つあります。1つは税制や補助金で誘導すること、2番目が全体の改革に導くために、変えやすい部分から変えて、全体に波及させていくこと、3番目が結果評価を厳しくし、上手にやれる企業は成長し、そうでない企業は潰れるという生存競争を促すドラスチックな政策の実施です。
つまり低収益性のままでは会社が立ちゆかなくなる政策を実行すれば、大胆な改革を実行するように促すことができる。これは、さまざまな意味で痛みを伴います。しかし、1番目の税制や補助金は本当の意味での企業内の改革を動かす効果は薄いでしょう。
中村 そうだとすると、変革期の現在、期待されている政策の形は2番と3番になります。2番目の部分的改革によって波及的に全体を変えていく手法は、合意形成が難しい今の時代に可能でしょうか。3番目の痛みを伴う手法はどのように進めていけばよいですか。
柳川 結論から言うと、最終的に目指すゴールを明確にしない段階で部分的に何かを変えるという2番目は政策ツールとして相当難しく、効果も限定的です。
3番目に関しては、たとえばがんばっている中小企業でも低収益の企業はある程度退出し、収益性の高い会社が回っていくようにしないと結局全員が苦しくなってしまう。
本当に守るべきなのは、会社自体ではなく働く従業員や経営者の生活です。会社が潰れても従業員が教育などでスキルを身につけてほかのところで働くことができる、再チャレンジのチャンスと再チャレンジできる能力を身につけることにお金を使うべきです。
生存競争を厳しくする政策を考えるのであれば、セーフティネットもセットで考える。また、失業してから能力を身につけるのではなく、在職中に職業訓練をやれるようにする。兼業・副業もその1つです。違うキャリアにトライし、あるいはトレーニングしないとなかなか切り替えは難しいでしょう。
中村 研究者は変革にどういう姿勢で臨んだらよいでしょうか。
賛否両論わきおこることを覚悟して、ドミノの1枚目となる具体的な政策プランを出すというやり方もありますし、ドイツの「ワーク4.0」のように何階層にもわたって社会対話を促すやり方もあります。
柳川 一番大事なことは言い続けることです。どんなことでも簡単には変わらないし、ドミノの1枚目でも言い続けなければ変わりません。
もっと言えば、言って変わらなくても諦めないことです。僕も兼業・副業の推進を言い続けてきましたが、最初は全然相手にされませんでしたが、ここにきてポジティブなムードになってきている。
また、同じ言い続けるにしても視点を変えてその時代や人々に響く主張の仕方を工夫する。時代の状況に応じて説明の仕方を変えると、受け入れられることもあるのです。
中村 先生は「諦めないで言い続ける」ことを心に刻んでいるのですね。私たちが何か変えたいと思ったらそのことを忘れてはいけません。今日は非常に勇気づけられました。
執筆/溝上 憲文 撮影/刑部 友康
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これからの労働政策
環境変化により既に、企業が収益力を高めていくことは容易ではなくなっています。今後は企業の競争力を高め、個人のキャリアトランジションを円滑にするための制度を拡充していく。今まで1つだった政策を、2面展開していく時期に来ています。
中村天江
プロフィール
柳川 範之(やながわ のりゆき)
1993年慶應義塾大学経済学部専任講師。東京大学大学院経済学研究科助教授を経て、2011年より現職。金融契約、法と経済学を専門とする。「働き方の未来2035:一人ひとりが輝くために」懇談会事務局長など、政府審議会等の委員を歴任。『40歳からの会社に頼らない働き方』『法と企業行動の経済分析』など著書多数。
産業・社会の変化に対応し、社会のシステムがどう変わっていくべきか、経済学の視点から政策提言してきたことで知られる。