人事の知的ランダムウォーク 2024年度

2025年04月21日

1)伊藤 雅範(花王) 未知の不安を既知の喜びへ ~私のスモールステップ~
2)井上 允之(ソフトバンク) 私の知的ランダムウォーク序章
3)江藤 悦子(イオン) ビジネスパーソンは知的ランダムウォーカーになれ!
4)小川 良平(飲料メーカー) 「キャラ」と日本語の可能性について
5)加藤 聡一郎(ラクスル) カオスな時代にカオスを活かす
6)島崎 紘一(リクルート) 知のランダムウォークを通じた「趣味が持つチカラ」の理解
7)鈴木 浩太(丸紅) 日本における潜在的なコミュニケーションスタイルの探索
8)中村 有佑(荏原製作所) 「知の探索サロン」を通じて私の未知の領域がどのように広がったか?
9)長谷川 穣(電気機器) 殻の外にある世界
10)本田 慎二郎(サービス) 1年間のランダムウォークの体験と未知の領域の広がり
11)水島 直子(富士通) 知のランダムウォークとの出会い ?コミュニケーションをテーマに?
12)茂手木 圭一(NTTデータ) 知的ランダムウォークが私を導いたフィンランドの「SISU」
13)M.S(情報・通信) 歩みを進めるポイントは、生まれる「問い」を楽しむこと
14)岸 秀一朗(電気機器) 言葉の使い手“コトバツカイ”として、丁寧に、時に大胆にコミュニケーションする
15)S.T(メーカー) 4つの視点から学ぶ、コミュニケーションの妙
(50音順 2025年3月31日現在)

1)未知の不安を既知の喜びへ ~私のスモールステップ~

伊藤 雅範(花王)

読書習慣がなかった私にとって、知の探索サロン参加は大袈裟だが勇気のいる決断だった。しかし初回セッションの哲学対話で、“話さずに聞いている自由”、“語ることが考えに形を与える”、“対話は終わった後に始まる”という学び・気付きを得たことに加え、梅崎修先生の知的ランダムウォーク方法論の1つ「本の買い方・並べ方」の“本は集めるもの・眺めるもの”という定義の転換をそのまま実践したことで、その後の1年間の活動に対し気負わず積極的に参画することができた。
花王には「真面目な雑談」という意見を気軽に出し合えるフランクな雰囲気と、雑談を通じて革新的なアイデアが生まれる文化がある。しかし働き方改革、DXの推進で効率的な働き方が進む一方、いつしか雑談は非効率の象徴としてのイメージが先行するようになってしまった。自然発生的な上長とメンバーのコミュニケーションに頼らず、企業人事として面談や対話の機会をわざわざ奨励しなければならないことに、どこかモヤモヤした気持ちで社員・業務と向き合っていたが、このサロンを通じ自分なりの解釈・解決に導くことができた。
それは朱喜哲著『ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』』(NHK出版)の一節にあった“会話を続けるなかで、私たちは他者の語彙に触れ、心を動かされたり、疑問を感じたりしながら、自己を拡張し、自分の終極の語彙を改訂に開いていく”という、哲学者ローティが主張する「会話を守る」ことが哲学の意義だという考え方に触れ、朱先生とのリアル対話を経て知識・理解を深耕できたためである。この先、社員やメンバーには対話も大事だが同等に日頃の会話も大事であること、「真面目な雑談」は今後も普遍的な大切な文化であることを自信をもって説いていく後押しをしてもらえた気持ちである。
サロンの課題図書はどれも骨太で、自分自身ではまず手に取らないであろう本ばかりだったが、捉え方を変えるとどの本も未知のジャンルばかりだったということだ。回を重ねるごとに知的好奇心・探求心も刺激され、いつしか課題図書以外にもゲスト講師の著書や、テーマ関連書籍も自分で購入したり、娘とともに隔週で図書館に足を運び月に数冊ペースで読書したりする習慣も身に付いた。梅崎先生には到底及ばないが職場の私の席や自分の家にも、私の本屋さんと言いたくなる書籍コーナーができた。今も並んだ本を眺めたり、パラパラとめくったりしてサロンで学んだことに思いを馳せることがあるが、その時々の仕事の悩みや課題の解決にも大いに役立っている。

また、知の探索サロンは3D読書が一つの型に設定され、より多くの未知と出会えたことも私には貴重な機会であった。夏の秩父合宿では、予め空き家問題に対し地域全体で「町住客室」のコンセプトを掲げ地域活性化を図っている情報を提供して頂いたことで、観光名所や中心地以上に、周辺の住宅地や裏通りにおける町興しの工夫や、そこに住む人々との触れ合いにフォーカスしたが、新たな街歩きの楽しみ方として今後も実践していきたい。
秩父合宿では少林寺での座禅も体験し、別の機会では遠州茶道宗家での茶道も体験させて頂いたが、これらも日頃の担当業務と生活圏だけでは知り得なかったかもしれない。そうした中で、座禅は心の安定や自己洞察に効果的で仕事に集中する上でも有効であること、茶道は五感のコミュニケーションであり、もてなしや心を尽くすことを何より大切にしていることなどを学んだ。企業人事として対人業務主体の私にとって、日々の業務や日常生活とは無関係のこうした体験から、意図せずとも業務上大切にすべき心の持ち方、コミュニケーションの取り方に対する視座を高める貴重な時間・空間だった。

知の探索サロンを通じて、未知の領域が既知の喜びとなることの楽しさを再認識し、HOMEとしての自社や担当業務に専念・没頭するだけではなく、今回の場のようなAWAYとしての外部の人・モノと出会い、共有する場・時間をより多く持つことが、人生に彩りを与え、仕事への活力につながることを文字通り体感することができた。
HOMEでの実践編として、昨年から実施している有志数社が内製で企画・運営している異業種交流研修の一コマにも哲学対話を取り入れてみたところ、研修生同士の理解の共有がはかどり、終了後の懇親会でも至るところで対話の続きをする姿が見られた。また、私が所属する部署の役割の1つでもある工場見学においても、リモート工場見学の提供先・提供方法を見直す上で、様々なコミュニケーションの取り方があることに着想を得て新たな取り組みを開始した。
サロンへの参加を通じて踏み出したスモールステップを止めることなく、今後も積極的に未知の領域に目を向け、足を運び、自分の会社・仕事に活かしていくことをここに誓います。

2)私の知的ランダムウォーク序章

井上 允之(ソフトバンク)

私が知的ランダムウォークに参加したキッカケは2つありました。1つは人事以外の領域から学ぶことで、いつもと違うインプットにより思考の枠を広げ、より本業に生かしていく、その方向性に惹かれたことにあります。もう1つは、やるなら普通に生活している中では関わる可能性が低いことに飛び込んでみよう、という遊び心を持ちたかったところです。当時アートや哲学、今まで踏み込もうとあまり思わなかったけれど興味はあるなと思っていた単語が、最初に目に飛び込んできたことで、これは参加したい!と思ったのがちょうど1年前でした。

実際に参加させて頂き、「哲学」「言語」「禅」「茶道」などを体験/実感することにより、今まで触れることがなかったインプットとそれに対して考えるというアクションが、今期テーマでもあった「コミュニケーションのデザイン」をより深く考える機会に繋がったと捉えており、有意義な時間だったと振り返って感じています。

具体的にどんなことを考えたかを紹介します。現在の一定規模の会社では、複数世代(X、Y、Z世代など)間のコミュニケーションが頻繁に行われています。そうした状況では、コミュニケーションにおいて「時間」軸(≒世代間ギャップ)というものも意識すべき要素だと、これからの人事の方向性を考えていく中でも感じていました。一方で今回の知的ランダムウォークに参加したことにより、時間以外にも「環境(空間)」と「言語(言葉)」を意識することでコミュニケーションの質が変わるのでは?という仮説を持つことができました。

環境(空間)においては、哲学対話/禅/茶道/バザール・クラブというそれぞれの空間を体験したり、考えることで、それぞれの空間におけるコミュニケーションの意義や位置づけを意識することができました。具体的には、議論というよりも、車座で感想など意見を自由に交わして結果としてインプットが増えているな、という実感を体験を通じて得られたり、バザール・クラブとは?を話していく中では、オンラインコミュニケーション量が拡大している現代においてオンラインセミナーなど究極のバザールが実は存在していて、よりクラブという環境が特別な位置づけに変化している……かも、という思考に及んだのもランダムウォークで該当書籍を読まないと出てこない思考だったと感じています。またテクノロジーの進化により環境はおそらく更に変化していくだろうとも容易に想像ができ、オンラインだけでなくAIがコミュニケーションにおいてどう関わってくるのかは、もう不可避のテーマでもあるなと感じていると同時に、来期テーマのテクノロジーも興味深く、魅力的であること間違いありませんね。

全体のセッションを通じて、梅崎先生、講師の皆様、共に学んだランダムウォーカーの皆様と議論や感想を共有していく中で、言語・言葉の使い方によって、伝えたいコトの伝わり方も変わる、それに伴いその後の会話の展開も変わる、ということも実感しました。普段人事としていろいろな人と対話をすることがありますが、言葉の使い方で伝わり方は変わるということを意識しつつ、用途に応じた言葉遣いがどれだけできるかを考えたいですし、逆に言葉を頂く際にはその意味を正しく受け取る意識を持とうと考えている次第です。

最後にこの1年を振り返って、知的ランダムウォークに参加していなければ読むことはまずなかったであろう書籍や経験ができたことは貴重ですが、とりあえず飛び込んでみて体験して考えてみるということが私にとって大事な知的ランダムウォークの手法である、と再確認できましたので、今後も興味を持ったことを体験/実践する身軽さをもって、インプット&アウトプットしていきます!

3)ビジネスパーソンは知的ランダムウォーカーになれ!

江藤 悦子(イオン)

この2年間で、私の本棚に、異質な本が仲間入りした。仕事をしていると、気が付かないうちに、自社の業界、自部署の担当職務にどっぷりとつかってしまい、そこでかなりくつろいでしまっている 。実は、狭い世界にいることも、すっかりくつろいでいることにも自覚はなく、外に出てみて初めてその現実に気が付いた始末。狭い世界での知見を深めていくことは、気分が良く優越感すら感じている。本棚を眺めると、同一ジャンルのビジネス書がずらっと並んでおり、プッシュで送られてくる新刊情報を得ると、早速書評をチェックして、ポイントが高ければまずは買って、コレクションに加えていくのが楽しみの一つになり、さらに似たような本が増えていく。その本棚に突然、ほとんど読まない異質な本が仲間入りした日から、私の知的ランダムウォークが始まった 。未知の本を起点に、その世界に関する本で拡げていく。そうすると、さらにわからない世界に入っていくけれども、読み続けることによって、なんとか、理解可能な領域にたどりついたり、つかなかったり。

読書だけでなく、体験も同様に、体験前にその世界を理解するための書籍を読む。体験後に、その体験を通じて、知見を拡げたり、深めたりしてみる。身になったかは別の話。いろいろな人と出会い、コミュニケーションしたり、読書も楽しいが、体験に勝るものはない。新しい体験を自ら創るのは相当意識しないとその機会がない。茶道体験は、足も心も痺れた。 歴史ある文化に触れて、人間が生きられる時間は短いと実感する。それにもかかわらず常に忙しい日々を送るなんとも不可解な行動の日本のビジネスパーソン。短い人生だから急ぐのか、ゆっくり楽しむのか、人の価値観の違いかもしれない。研修で、もっと長期的視点で考えてみようなんて言ったりするが、それは、時間軸をどこにおくかで変わってくる。千利休と出会ったかもしれないお道具や美術品を眺めて、長い歴史と、物って長生き、と感じた。

一方でそれを可能にしているのは、人の力なのかと考えたのは、秩父探索。文化や物は自主的に行動できないので、媒介者的な機能を果たす人が必要になる。歴史や文化を創っているのは、やはり人なのかもしれない。創出も維持も改善も改革も、停止や撤退も意図しないと起こらないとすると、それを実現させているのは人ってことかという結論。
人は自分が見たいものしか見ていないことを実感。自分の世界から出ないのは、なんか楽しいものがある。新しい世界は頭を使って考えなければならず、やらなきゃだめなのかと思うが、やってみたら未知な世界への戸惑いと、気持ちも若返る新鮮な感じが混在し、なんで今までこれに興味がなかったのかという気持ちになってくる。知らない世界っておもしろい。歴史もの?これまで一番嫌いでした。

新しいことを学ぶ、そのためには学びの場に出向くべき。そこで、人と出会い、見る、聴く、感じる、食べることで、五感が刺激される。新たな発見を通じて、仕事観、人生観がアップデートされた経験であった。ビジネスパーソンの毎日は取捨選択の連続、Learning&Unlearning、良い選択ができるようになろう。選ばれる人になると、出会いが増える。頼りにされる、役に立つ存在になりたい。こんな自分の価値観にも、たどりついた知的ランダムウォークであった。

4)「キャラ」と日本語の可能性について

小川 良平(飲料メーカー) 

私の知的ランダムウォークのテーマは、日本特有の強みとは何かを考えてみることである。10カ月程度の経験の中で感じたことを記したいと思う。

●「コミュニケーションと言語におけるキャラ」との出会い
定延利之著『コミュニケーションと言語におけるキャラ』(三省堂)によれば「キャラ」の概念は、通常切り替わることのない「人格」と状況によって意図的に切り替えられる「スタイル」の中間にある、「変えられるが、変わらない、変えられないことになっている」もので、人格とスタイルに挟まれた人間の調節器のようなものとなる。属する集団によってキャラが違うということが成り立ち、これは日本語社会特有のものとされている。
この考え方に触れ、今一つ理解してきれていないが何かひっかかりを感じ、以後の私の深めていくポイントに設定した。

●ランダムウォークでの様々な出会いによる気づき
秩父みやのかわ商店街の島田憲一氏、少林寺住職の井上圭宗氏、遠州流茶道宗家十三世家元の小堀宗実氏など多くの方のお話を伺う貴重な経験を得た。この中で感じたこととして、「キャラ」は初めて集団に入る際に自分でプロデュースするものではあるが、その集団の他のメンバーによって固定化されるのではないかということである。要するに「キャラ」の決定権は本人にはなく、コミュニケーションの相手側にあるということである。確かにランダムウォークを通じて私も出会った方々を出会う前からの情報で「キャラ」の仮説を立て、実際にお会いし、話をお聞きする中で検証し、その方の「キャラ」を定着させていた。
また、遠州流茶道の「綺麗さび」のように積み重ねられた歴史により形成されたユニークな言葉が、その集団に属する人の「キャラ」付けをする際に、大きな影響を及ぼすと感じた。

●「キャラ」と日本語の可能性について
朱喜哲著『人類の会話のための哲学』(よはく舎)、『ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』』(NHK出版)の中で、「言葉づかいこそが自分を規定する。言葉づかいこそが自分や社会を作る」というローティの言葉と、朱喜哲氏がこれから重要となることとして挙げた「言語の多様性」「ボキャブラリーの多様性」という言葉が印象に残っている。
日本語はひらがな、カタカナ、漢字があり、数多くの方言も有している非常にユニークな言語であり、世界の言語の中でも単語数の多い言語のひとつである。ただ、現在の日本では、特にビジネスの場になると共通のビジネス用語だけを使用することが多く、そのほうが効率的でもあり、逆に多様なボキャブラリーを使うことは敬遠されているように思う。そのため、企業や個人を表現する言葉も分かりやすい画一的なものになっているように思う。
そのような状況であるからこそ、他にはない魅力ある企業や個人の未来の「キャラ」を作り上げるために、今からこだわりのある「おもしろい言葉」を設定し、それに伴うストーリー(実績)を積み重ねていくことがポイントになるのではないかと思う。

●ランダムウォークの学び
今回、人事とは離れたランダムウォークをすることにより、先入観を持たずに様々な知識や経験を積む中で、ある程度知識、経験が溜まった段階で振り返り、組み合わせてみると違ったものが見えてくるような漠然とはしているが気づきを得られた実感がある。今後も仕事に役立つかどうかは気にせずに興味を持ったものを深めていくようにランダムウォークを継続したいと思う。

5)カオスな時代にカオスを活かす

加藤 聡一郎(ラクスル)

社会、経済が複雑化し、そして人々の価値観や考えが多様化するのに伴い、組織が抱える人事的な課題も複雑さを増しています。こうした環境変化の中で、人事には、制度を作り定められたプロセスを運用するという管理者的な立場から、多様なタレントを集め、活かし、会社の次の成長を創っていくというビジネスパートナーとしての立場への転換が求められるようになりました。前例踏襲や他社の模倣では通用しない領域が増え、各人事担当者が発想力を鍛え、自社に合わせたある程度固有の施策を立案、実行しなければ通用しない時代を迎えています。

こうした課題感を持つ中で私が出合ったのが、この知的Random Walkersでした。
私たちの世代では、計3つのユニットと秩父合宿で構成されたプログラムとなりましたが、私が感じたこの施策の主な効果は以下の3つです。

1. ランダムウォークを通して視野が大きく広がる
自身の興味関心だけでは絶対に巡り合わなかったであろう書籍や考えとの出会いを得ました。

2. この場で初めて出会う、しかし人事という共通点を持つ仲間たちとの議論を通してより考えが深まる
他の参加者とは初対面という関係性ではあったものの、人事という共通項があることにより議論が一定のまとまりを持ったものとなり、より多くの気づきを得ました。

3. 全く関係ないように見える書籍、経験からも多くの気づきを得ることができる
キックオフの場で提案されたこともあり、私は一年間を通して取り組むマイテーマを設定した上で参加していたのですが、それぞれは全く関係のない話題であったにもかかわらず、全ての回でマイテーマにつながる気付きや学びを得られました。

私が設定したマイテーマは、人が集まり、対話を行い、何か新しさのあるものを日々生み出す場としての『楽しいカオス』の創り方です。
テーマ設定した当初は、ランダムウォークの中で考えを深めることができるのかについて半信半疑な気持ちがありましたが、結果としては、コミュニケーションと言語におけるキャラの理論、秩父市におけるみやのかわ商店街の取り組み、遠州流茶道、哲学者ローティの理論を軸とした会話のための哲学という、それぞれは接点を持たない学びを通して、楽しいカオスに関するヒントを得て、立体感のあるイメージを構築することができました。

《具体例》
①コミュニケーションと言語におけるキャラ
気付き:キャラの縛りから自由になる方法

  • キャラは関係性の中で固定化される 
  • 別の場における固定的な関係性を持ち込ませないことが必要条件 
  • 集団の空気・関係性を変えることのできる空気を読まない人も必要 
    楽しいカオスへの応用 
  • 異なるコミュニティからメンバーを集める 
  • 意図的に空気を読まない人をメンバーに迎える 
  • 場をファシリテートする人材を配置する 

②秩父市 みやのかわ商店街
気付き:成功する集団づくりの持つ要素

  • 決裁権をメンバー自身が持つ 
  • あえて失敗させる風土 
  • ネガをポジに転換する発想 

 楽しいカオスへの応用 

  • 決定権はメンバーに持たせる 
  • ポジティブ転換の徹底
  • チャレンジを称賛する空気づくり 


③遠州流茶道
気付き:技能伝承を成功させる要素

  • 関係するものの背景知識、ひとつひとつの所作の背景を繰り返し伝える
  • 伝えるために言語化を進める
  • 言葉だけでは伝えきれない部分については体験の反復により伝える

 楽しいカオスへの応用 

  • 場のルールの言語化
  • 場のルールのリマインド
  • 場のルールの実践


④人類の会話のための哲学
気付き:会話が続く環境要因

    • 互いの共通項を軸に「我々」と表現できる関係性を構築する
    • 会話に参加する動機の存在
    • 個人の価値観には踏み込まない

 楽しいカオスへの応用 

  • 場のテーマを設定する(共通点の設定)
  • 場への参加については本人の自主性を重んじる
  • 個人の価値観には踏み込まないことを宣言する


この施策に参加し、実体験を通して私が得た学びは、「知的ランダムウォークは、補助線となる個人的なテーマや課題感によって肉付けされ、立体感のある活動に昇華される」というものです。
ランダムウォークには、新しい知見に出会い、自身の視野の広がりを得るという効果があります。一方で、それだけでは趣味的な取り組みと何が違うのかと疑問や疑念を持つ方もいらっしゃるかもしれません。そんな方に私からお伝えしたいことは、「あなたが持つ個人的なテーマや課題感を軸にランダムウォークを振り返ることで、ランダムウォーク以前にはたどり着けなかった発想に出会うことができますよ」ということです。
新たな発想は異質なものの組み合わせから生まれる。言葉にすると当たり前のことのように聞こえますが、これこそが発想力を鍛えるための実践的な解であり、知的ランダムウォークの具体的な価値なのではないかと、私は考えます。

6)知のランダムウォークを通じた「趣味が持つチカラ」の理解

島崎 紘一(リクルート)

1年間の知のランダムウォークを通じて、「趣味が持つチカラ」についての理解を深めることができました。この理解を拡げたいと思ったきっかけと具体的な内容についてお伝えします。

まず、「趣味が持つチカラ」とは具体的にどのような力なのかを明示します。それは、「人と人がフラットな関係を築くのを強く手助けする力」であると認識しました。もちろん、趣味と一言で言っても様々な種類があり、他者が関与しない趣味も存在します。そのため、趣味によってはそのような側面を持つことがあるというのが、正確な趣旨です。

次に、今回のテーマを探求しようと思ったきっかけをご紹介します。「タイパ」という概念が、単なるトレンドに留まらず、一つの価値観として認識されてきていると考えています。仕事を進める中で「生産性」という近い概念を用いて意思決定を行う場面も多く、私自身も違和感なく日々業務を遂行していました。しかし一方で、時折こんな疑問が頭をよぎることがありました。「本当にこの考え方で進めてしまって良いのか?本音で、目的や前提を再考する必要があるのではないか」と。しかしながら、そうした疑問を持ちながらも「とはいえ」という言葉を使って、疑問は一瞬で過ぎ去り、何事もなく業務を進めている自分がいました。

その中で、知の探索サロンを通じて、茶道や座禅といった静的でハイコンテクストな空間を体感することができました。この経験の中では、心理的安全を持ちながら本音でコミュニケーションを行うことができました。どちらも、何かの答えを出す必要がなく、各自の中で答えらしきものを持つことができるというグラウンドルールが存在していたからです。この体験をきっかけに、直接仕事の中での実践は難しくても、まずはプライベートにおいて、家族や友人ではなく他者との関係を深める時間を増やす方法を模索するようになりました。

私はその問いに対し、囲碁の実業団団体戦(同じ企業で働いていて、囲碁を趣味としてやっている仲間でチームを3人一組で作り、他の企業チームと勝敗を争う大会)の開催という具体的なアクションを取りました。これは、実証実験的なランダムウォークであったと考えています。囲碁の実業団大会という手段を選んだ理由は、単純に私の趣味が囲碁であったことからです。また、実業団大会は普段関わりのない方々と共通の趣味を通じて、遠慮や忖度が不要な関係を築いてほしかったためです。その結果、150名近くの方々に参加いただき、年齢や性別、職種を超えた新たなコミュニティを創造することができました。

このような知的ランダムウォークを実践する上で最も重要だと思ったのは「1ミクロの前進」という考え方です。様々な文献を読み、有識者と交流し、自分でイベントを開くなど、ランダムウォークのどんな方法でも良いのですが、重要なのはそれを継続するためのモチベーションをどのように自分自身で作り、高めていくかという点です。このように考えると、「1ミクロの前進」という精神性が非常に大切であると認識しました。

冒頭で述べた通り、「生産性」や「効率」を思考のベースにすると、どうしても意味や価値を過去の経験則や知識で判断し、結果的に異質なことに踏み出す意思決定をが難しくなります。たとえば、「そのテーマのイベントに参加する」や「そのテーマに知見のある人と交流する」といった具体的アクションが置かれやすいのですが、自分の中で熱量が上がり切っていない段階では、行動に移すことが難しくなります。その結果、「結局やらない」という顛末に至ることも少なくないでしょう。

要するに、今まで知らなかったことや踏み込まなかったのは、自身の中で優先度が上がっていなかったからです。急にそれを引き上げるマインドセットは非常に難易度が高いと言わざるを得ません。したがって、たとえば「そのテーマのHPを開く」「買いたい書籍をお気に入り登録する」といった小さなアクション(つまり、1ミクロの前進)から始め、それを継続し、徐々に自分の熱量を上げていく方法が、結果的に深いランダムウォークに至るのではないかと考えています。

最後に、ここまでお読みいただきありがとうございました。「知的ランダムウォーク」は、VUCA時代という言葉とセットで聞かれることが多い印象があります。一方で、それを実践しようとすると、日々忙しい中で続ける難しさを感じる場面もあるでしょう。だからこそ、「1ミクロでよい」という気軽さで続けながら、自身の熱量をゆっくり上げていく思考法を、最も伝えたいこととして終わりにしたいと思います。

7)日本における潜在的なコミュニケーションスタイルの探索

鈴木 浩太(丸紅)

今回、ランダムウォークのテーマとして、「日本の潜在的コミュニケーションスタイル」を選択した。
その理由としては、サロンの各セッションにおいて、日本と海外のコミュニケーションスタイルの対比、あるいはその根底にある宗教的背景について考えさせられる機会があったこと(※)、また、それを踏まえて日本的なコミュニケーションの特徴について理解を深めたいと思ったからである。

※第1ユニットのキャラの議論における、日本と西洋の宗教的バックグラウンドから来るコミュニケーションスタイルの違いや、第2ユニットにおける遠州流茶道やオプションセッションにおける禅の世界の寛容性など


ランダムウォークの手法としては、基本的にはテーマに関連したキーワードでのインターネット検索を行い、そこからめぼしい書籍をピックアップし、読むことによって情報を拾い上げていくことを行った。

上記テーマについて、まずは日本のコミュニケーションの根底にある宗教観・背景を考えることからランダムウォークをスタートした。その際に参考にしたのは、島田裕巳著『日本人の信仰』(扶桑社)と加地伸行著『儒教とは何か』(中央公論新社)である。以下の点から、日本における宗教的背景から来る寛容さを認識した。
日本人は無宗教だと思われがちだが、実際には各家に神棚や仏壇があり、正月には初詣をするなど、神仏の実在を前提とした宗教的行為が生活に入り込んでいる。西洋などでは無宗教=宗教との関わりがない状態であるが、それと比べて日本の無宗教は緩い。イスラム教ではメッカ巡礼を生涯許されない信徒もいるが、日本では神社仏閣を誰でも参拝出来るという、緩さ(寛容さ)がある。

日本では、古来の神道と仏教の存在により一神教が定着せず、また、「ない」宗教(創唱者も教えも経典も救いの概念もない)である神道と、「ある」宗教(創唱者としての釈迦、教え、それを記した仏典がある)である仏教との組合せであるが故に衝突せず、共存出来た側面がある。加えて、クリスマスやハロウィンなどのキリスト教由来の行事・祭りを取り入れている。
儒教には祖先崇拝(唯一神崇拝とは相容れない)という宗教性があるが、日本仏教は中国を経由してきた過程で祖先崇拝などの儒教要素を取り込み、儒教の宗教性(孝)が残った。家にある仏壇や墓参りの習慣は、本来は仏教ではなく儒教的なものであるが、仏教が儒教の孝を吸収した形となっている。
フィールドワークとはおこがましくて言えない(どちらかと言うと観光や趣味の世界と言える)が、上記の確認として、日光東照宮や仙波東照宮・喜多院(川越)、都内の神社仏閣を巡り、神道と仏教の共存を確認した。例えば日光東照宮は神社であるものの、その敷地内には仏像である薬師如来を祀った本地堂という建物や、仏塔である五重塔が建てられており、神道・仏教それぞれの解釈や捉え方の緩さから、互いを取り込み合っている。

上記の通り、日本における宗教的背景からの寛容さを踏まえた上で、日本人特有のコミュニケーションスタイルを確認することとし、それにあたっては芳賀綏著『日本人の表現心理』(中央公論新社)を参考とした。宗教的背景との十分な関連性は見出せなかったが、以下のように、日本人のコミュニケーションスタイルの根底にある、受容性とも受け取ることが出来る特徴を理解した。

都市国家、商人社会の中で意思表示、自己の立場の主張(ロジック、レトリックで工夫して伝える)が重要であった西洋と比べ、日本人は農耕民族として植物を相手に黙々と作業を行ってきたことから、そのコミュニケーションにおける態度の根底にあるのは「語らぬ」ことであり、自己の立場を「わからせ、通す」ことではない。
この他、「いたわる」(遠慮、引き下がり、自分を他者の立場に置く)、「ひかえる」(謙遜)、「修める」(自己内コミュニケーション、掘り下げ、論理的正しさよりも道徳的正しさ)、「流れる」、「まかせる」(うつろい、成り行きに任せる)などの特徴がある。

これらを踏まえた一つの共通点として、日本的なコミュニケーションスタイルは、その背景に高い寛容さや受容性を含んでいると言えるのではないか。一神教が信仰されている地域を中心に、お互いの主張がぶつかり、分断が生じている中で、日本的コミュニケーションやその活用・取り入れが、何か緩衝材的な役割を担うことができる余地があるのではないかと考える。オプションセッションでお話を伺ったみやのかわ商店街の事例でも、町おこしの取組に参加しない人達に対して、包含していくことで距離を保ちつつもプロジェクトの仲間として取り込んでおり、通ずるところがあると感じる。そのようなスタイルを公私における様々なコミュニケーションにも活かせられればと考える。

8)「知の探索サロン」を通じて私の未知の領域がどのように広がったか?

中村 有佑(荏原製作所)

本プログラムを通じて、私自身の未知の領域がどのように広がったのかを簡潔に述べる。第一に、梅崎先生や各諸先生方、受講生の皆様との交流により、その「生」の時間や情報、音、リクルート本社の場、参加者の視線や発言、交流の空気を通じて、文字情報だけではない「生の知の領域」が広がったと考える。第二に、毎週の課題図書の購読やインタビューの実施、(参加できなかったものの)夏の合宿や茶道の体験といった普段のビジネスからかなり距離のあるテーマに触れたことで、自身の思考パターンや仕事へのスタンスの「クセ」のようなものが分かり、そこからある一定の距離を保つという「態度」が身についたように感じる。第三に、特に最後のセッションのテーマである朱喜哲著『ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』』(NHK出版)の購読及びその後の梅崎先生と朱先生との対談を目の当たりにし、日本の知性の最高峰の片鱗に触れ、自身が到達しえないが憧れるような領域を再確認した。

まず「知の領域」の拡大における「生の知の領域」の拡大に関して、通常「知の領域」の拡大に有効な手段は2つ考えられる。一つは文字情報による学習、もう一つはその場に身を投じることでの体験、である。今回の「知の探索サロン」はその研修設計でうたわれているように、①見る・聞く②体験する③読む・学ぶ④対話するという4つの要素からなる「3D読書」のコンセプトで構成されている。特にこのうち①と③、④に関して、「生」(Live)の感覚を通じ、自身の脳に刺激を与えることができたと感じている。日頃の在宅勤務やオフィス勤務では得られない「場」への移動と、その場にいる先生や受講生、事務局の方々といった「仲間」との意見交換を通じて、普段働かせることのできない脳の機能を働かせることができた。特に梅崎先生の思考の速さや情報量、そのテリトリーの広大さに圧倒され、またそれに負けじと意見を述べる受講生に交じり、私自身もかなり飛んだ思考を試し、共有することが一部できたと思う。

次に自身の思考の「クセ」の認識である。毎回の講座の最後に設定された車座での「哲学対話」を行い、そこで意見を述べる機会を得られた中で、「何を言っても良い」という空気が非常に心地よかった。また最後のテーマであったローティの主張の一部である「アイロニー」という概念を通じ、「正しい真理はなく、そこに向かって言論を続けるだけ」という姿勢にも驚きと潔さを感じた。これはプラグマティズム学派の流れを汲み、ひいては哲学者の究極ともいえる「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」という境地に達したウィトゲンシュタインの思考にも通ずる、ある種知性の極みに到達した後での諦めと潔さと言える。賢いふりをしていても頭は良くならず、進んで馬鹿にならなくてはならない、ましてや何かの正解にたどり着いてしまったなどとうそぶいてはいけない、今までの自身の思考の「クセ」を根底から改めて正されるような、そんな衝撃をローティやその後のセッションから受けた。

最後にこのローティが述べるアイロニーを具現化するようなセッションから得られた感動である。「正しい真理はなく、そこに向かって言論を続けるだけ」ということ、即ち「語り続けねばならない」というポリシー、それを語る梅崎先生と朱先生の止まぬ対談、生の知のセッションが聞いていて心地良く、QAを投げかけそこに答えを頂けることに喜びを感じた。事前の準備や知識量が足りていない自覚はあったものの、そこにはローティの言う開かれた「バザール」以上の、より(なかなか到達できないという意味で)限定的な時間・空間・仲間、即ちローティの言う「クラブ」があったように思う。

9)殻の外にある世界

長谷川 穣(電気機器)

今回本プログラムに1年間参加させていただき、様々な、日常では触れる機会がないような体験をすることができました。哲学論や思想論の第一人者の方との交流から茶道体験など、いつもの自分では恐らくアプローチもしないだろう各テーマは、正直初めは「これを学ぶことで何の意味があるのか」と疑問に思ったりもしましたが、回を重ねていくに連れて「こんな世界があったのか、次はどんなコトが起きるのだろう」といった思いに変わっていったように思います。特に印象的だったのは哲学論の回でして、最初は全く理解できなかった哲学の考え方を一つひとつ噛みしめていくことで、これまで学ぶと言えばスキルや知識だった私にもっと大きな思考の広がりにつながるような経験だったと思います。

自分なりのランダムウォークとして1年間通じて取り組んだのは手あたり次第読書、とでもいいましょうか。休日に図書館に引きこもり、自分の普段の生活にまったく関係ないような本をとにかく読み漁る活動です。美術論や世界史から紀行文学、経済論など全く馴染みなく言葉の意味も分からないような本ばかりだったんですが、その中で自分にはどんな考えが引っ掛かり、どんなものに心が弾み、どんなものに嫌悪感を抱くのか、はたまた何も感じないのか、そういった何かが生まれるのかをまずは試してみようという風に思っていました。

そんなプログラムや自分なりのランダムウォークを通じて最後のポスター発表を迎えたわけですが、テーマを決めるにあたって自分に課したルールは“自分が一番縁遠い、避けていたテーマにしよう”というものでした。ランダムウォークに参加して少し体験できた自分の枠をはみ出すという行動を突き詰めていきたいと思ったんでしょうね。選んだテーマは「組織としての宗教団体」です。私の青年期には宗教的な紛争やテロが多発してきたこともあり、宗教に対してネガティブな印象を持ち、触れるのも避けてきたな、と。今回発表に際しては宗教の歴史から果ては新興宗教の組織構造についてまで調査分析してきましたが、意外にも面白く、これまで自分の中で未踏破だった世界に少し視界が広がった感覚を持った気がします。

発表当日もこんなテーマで何の議論になるのか今更に不安になりましたが、他メンバーの着想の違いや新たな視点が非常に多く、同じテーマ内容でも見る人によってこれほど多様な考えが生まれるのか新鮮な驚きでした。またそれぞれの発表を見ていてもテーマの選び方にその人の信念やチャレンジが色濃く表れているのが良く分かり、自身とは違う世界と触れるまたとない機会でもあったと思います。

今回プログラムを振り返ると、まず自身の殻を破る(=踏み込まなかった世界に踏み込む)ことを最初は先生・運営の皆さんから提示され、その中でいかに自分が意識して殻を破っていくのかを求められていた気がしますね。自分の手の届く範囲で閉じず、もっと先、もっと広いところを目指していく姿勢はまだまだですが、そもそも“こんな姿勢があり得るんだ”という認識を持てたことは大きな財産になろうかと思います。

10)1年間のランダムウォークの体験と未知の領域の広がり

本田 慎二郎(サービス)

背景
私の1年間のランダムウォークのテーマは「デザイン」であった。もともと関心はあったものの、深く学ぶ機会を持てていなかったため、この1年を通じてデザインに関する読書や体験を重ね、未知の領域を広げることを試みた。
本レポートでは、私がどのようにランダムウォークを実践し、それによってどのようにデザインの理解が深まったのかを述べる。

ランダムウォークの方法論
ランダムウォークとは、未知の領域に対して計画的なアプローチではなく、偶然の要素を取り入れながら探索を進める方法である。今回の学習では、以下の方法を活用した。
1.デザイン関連の書籍をランダムに選び、読む
o事前に特定のリストを作らず、その時々で興味を持った本を手に取る。
o書籍の中で気になった概念やデザイン手法について、さらに関連する資料を探す。
2.デザインに関する展覧会や建築・美術館を訪れる
o宗教建築や茶道のように、体験としてデザインを捉える機会を増やす。
o特定の分野(グラフィックデザイン、建築、プロダクトデザインなど)に偏らず、多様な領域を横断して観察する。
3.日常の中でデザインを意識的に観察する
o都市空間、広告、UI/UXデザインなど、日常のあらゆるデザイン要素を意識的に分析。
o「なぜこのデザインが採用されているのか?」という問いを常に持つ。
4.自身の解釈を記録し、考えを深める
o観察や読書の内容をノートにまとめ、デザインの共通点や異なる視点を整理。
o1つのテーマにこだわらず、異なる分野との関連性を考察。

未知の領域の広がり
1. デザインの本質的な役割の理解
デザインは単なる装飾ではなく、「目的に沿って情報を伝える手段」であることを改めて認識した。特に以下のような視点が新たに得られた。

  • 視覚的要素が持つ意味:デザインは、色・文字・形の組み合わせによって、メッセージを伝える。
  • 機能性と美しさのバランス:必ずしも「オシャレ」であることが求められるわけではなく、目的に合致していることが最も重要。
  • デザインのプロセス:単にアウトプットを作るのではなく、「らしさ」や「本質」をどのように形にするかが問われる。


2. 宗教とデザインの関係性
宗教建築や宗教美術の観察を通じて、デザインと思想の関係についての理解が深まった。特に、3大宗教(キリスト教・イスラム教・仏教)のデザインには以下のような共通点と違いがあった。

  • キリスト教:シンメトリー、高さ、奥行きの強調。
  • イスラム教:幾何学的なパターン、偶像崇拝の禁止に基づく抽象表現。
  • 仏教:曼荼羅的な広がり、水平性、安定感。

この観察を通じて、デザインは文化的背景や思想と深く結びついており、単なるビジュアルではなく「世界観の表現」であることを実感した。

3. 「見立てるチカラ」の再発見
デザインは、既存の要素を組み合わせ、新たな意味を持たせるプロセスでもある。人間は「らしさ」や「っぽさ」を感じ取る能力を持っており、これをデザインに応用することで、新たな表現が生まれる。
例えば、日本の茶道のデザインにおいては、細かな所作や道具の配置が「おもてなし」という体験を作り出す。このように、デザインは単なる物理的な形ではなく、体験やプロセスを含むものであることを学んだ。

まとめ:デザインを通じた未知の領域の広がり
1年間のランダムウォークを通じて、デザインが持つ多様な側面を発見することができた。

  • デザインの本質は「情報伝達」「体験設計」「文化的背景」といった要素が絡み合うものである。
  • 宗教建築や茶道など、異なる文化的コンテクストの中でデザインがどのように機能するかを学ぶことで、デザインの根源的な役割を理解できた。
  • 日常の中のデザインを意識的に観察することで、今まで気づかなかった視点を得ることができた。

今後もデザインに関する学びを続け、新たな視点を探求し続けたいと考えている。

11)知のランダムウォークとの出会い ーコミュニケーションをテーマにー

水島 直子(富士通)

はじめに
昨今の組織内コミュニケーションは、1980年代?90年代の様子と比べて、変わってきている。この年代のいわゆる“バブル時代”は、上司の業務指示をメンバーは的確に受け取り、報告・連絡・相談(ホウ・レン・ソウ)を行い、また指示を仰ぐ、いわゆる「上意下達」の要素が強かったように思う。ところが、VUCA*の時代と言われる今、上司・メンバーの双方向のコミュニケーションが重要とされており、その中身も、フィードバック(ポジティブフィードバック・ネガティブフィードバック)やモチベーション向上、業務だけではなく将来について話し合うことまで含まれてきている。コミュニケーションのテーマが多岐に渡る中、双方(上司・メンバー)がどこまで本心・本音で話し合っているかは、外からはなかなか見えない。お互いに尊重し合い、考えを理解し合おうとし、信頼できる関係を構築し、その上で対話ができる環境を作ることが求められているが、それが簡単にできたら、苦労はしない。

今回、コミュニケーションのデザインをテーマにした“知のランダムウォーク”で、「どうやったら相手に自分の考え(本心・本音)を伝えられ、どうやったら相手から本心・本音を引き出せるか」ということを考える機会があったので、それを一部共有したい。そして、最後に知のランダムウォークがもたらしてくれたものにも触れたい。

本心・本音を伝えるために
自分のことをよく知ってくれていて、自分も信用している相手には本心を伝えやすいと思われがちである。しかし、その相手というのは、人によっても、テーマによっても異なるかもしれない。例えば、家族は「何でも話せる相手」と考えられがちであるが、人によっては、もしくは、テーマによっては「絶対に家族には話せない」ということもあるであろう。

では、自分が「自分ではない何か」になって、話すとしたら、どうだろう。例えば、自分の見た目や声が全く変わり、心だけが自分だとする。そうすると、今まで本心・本音を話せなかった相手にも話せることもあるのではないのだろうか。例えば、仕事での重要な会議の場で、上層部がAと言っている。ただ、自分は、少し違う意見を持っている。普段なら言えない。もし、自分が別の名前で、自分の見た目でなかったとしたら、どうだろう。もしかしたら、意見を述べているかもしれない。

このように、人は、どうしても周りの評価や反応を気にしながら、人とコミュニケーションを取っていることが多い。よって、何か別のものになりきったり、自分が何者かを相手に見せない状況の方が本心・本音を言えたりすることもあると思う。ただ、現実にはそうできない環境の方が多いので、お互いに自分自身がおかれている状況(役職、身分等)を一旦横において、考えや思いを交わすことができるとよい。その場を自然に作ることができるともちろん良いが、なかなか難しい。そこで意図的に、相手の意見を認める、否定しない、その上で考えを交わすというルールに則った場を作ることで、それを実現するのもよい。特に仕事上で、この取り組みを実践すると硬直していた関係性がブレークスルーすることもあるだろう。

知のランダムウォークがもたらしたコミュニケーション
知のランダムウォークの機会で、コミュニケーションというテーマに対して、様々な角度から考えることができた。
普段なら手に取らない書籍との出会いはもちろん、時には茶道の家元で茶会に出席したり、恐竜の化石から古代に思いをはせたり、時には難解な哲学に唸ったりした。
このランダムウォークのおススメポイントは、様々なインプットを経て、仲間と意見を交わす場があることだと思う。自身だけでは、自分の心の中にいい感じで収めて終わっている(終わらせようとしている)考えが、会話することで「はっ」と気づかされる瞬間が生まれるからだ。これこそ、コミュニケーションである。お互いに認め合いながら、考えや思いを交わすコミュニケーションの場は、私たち人間にとって、社会生活、自身の人生にとって、スパイスになると改めて感じている。

*変化し(Volatility)不確実で(Uncertain)複雑(Complexity)、さらに曖昧=両義性がある(Ambiguity)現代の特徴を言い表す言葉

12)知的ランダムウォークが私を導いたフィンランドの「SISU」

茂手木 圭一(NTTデータ)

知的ランダムウォークにおけるマイテーマは「自己変革、組織変革における現状の外側に出ること」と年間のサロンテーマ「コミュニケーション」の掛け合わせである。

まず、マイテーマの設定に至った、背景を具体的に述べたい。昨今、ゆるい職場論や心が折れる職場という議論に代表されるように、組織の在り方や現在地に課題や悩みを持っている現場リーダークラスは多く、それはこれからもきっと減らない。むしろ、そのカオスを前提として、個人として組織としてどうすべきかという方法論をランダムウォークしたいという意図である。そこに、今年のサロンテーマのコミュニケーションのデザインを含めて3D読書の実践を進めてきた。

私の課題設定としては、年間を通じてのサロンでの気づき、学びとマイテーマには関連があり、どこかで繋がると見立てていた。
つまり、個人も組織も、現状の外側に行かないのはなぜかについて、その理由や、コミュニケーション論はどこかで交わり、ひとつのジャンルになるのだろうということだ。そのためには、サロンで実践した座禅や茶道などから、内省が一つのポイントになると考えた。
そこで、自身が興味を持って取り組むことのできる手段を3D読書として、サウナブームに周回遅れで参画を決意し、サウナによる内省と読書を繰り返すことにした。

いよいよ実践であるが、サウナに関する書籍を乱読によってインプットを試みた。そもそものサウナとは何か、どのような効能があるか等の関連書籍から始まり、フィンランドに起源をもつことと関連して、SISUという文化が存在することまで、様々なインプットを得た。SISUとは、「健康的で、レジリエントな思考、幸福度の最大化を行う取り組みのこと」であり、たとえば、アイスバスに入ることもこの習慣の一つである。SISUはフィンランド独特の意思の強さ、安易な道に逃げない強い心のことを示している。

そのうえで、実践のフィールドワークとして、80℃を超えるサウナ室の中で、「お前はどうしたい」といった自問自答、内省、瞑想を行ったのである。例えば、自分や組織を本当に変えたいのか? 現状の外側になぜ向かいたいのか? そうだとすると、自分が取るべきアクションは何か? と、サウナの中でじっと考えるのである。そして、サウナから出たら読書をするのだ。そのアクションは、人間として正しいか? などの思考に至り、現状の外側の議論からも大いにはみ出して生き方としてどうあるべきかまでたどり着いてしまった。
サウナの中では、ひたすらに、自問自答し続けた。当然に、スマホやメモ帳もサウナ室に持っていけないのであるが、キンキンの水風呂の終了後には、次に行動すべき事項は明確に決まった。
たとえば、本当に変える必要があるものは何か? 自分なのか、組織なのか? などについて、サウナに加えて、様々な文献を読み漁った結果、一つの解釈としては、「他人は変えることができない」ということである。私としては、他人をも変えられる人になりたいと、若かりし日に在籍企業の昇格審査の場でプレゼンした記憶があるが、これは間違いだったようだ。
つまり、元来、人は動物の本能として、変化を拒むようにできていることを理解した。そもそも、変化を拒むのが人間の本能にもかかわらず、他者からの問いかけ、指導等で行動変容を促すのは非常に困難で烏滸がましいことだ。他人を変えるよりも、自分が変わっていくのが望ましい方法論であると強く認識した。

サウナ×個人の内省の効果は凄まじいと認識していく過程で、サウナでの集団のコミュニケーション、組織を変えていく営みをやっていくことができればと考えていたが、なんと実施していた会社があったのだ。JALである。JALには、W-PITという社内組織があり、サウナ部が存在し、部門や組織の壁を乗り越えることを既にやっているのだ。

最後に、結論として考察したのは、以下である。
「サウナに入ってそれでも悩んでいたら。それが本当の悩みだ」ということである。もやもや等は、仕事をしていると当然にあるものであり、この名言は、オールドルーキーサウナの 岡村陽久店長が仰っているとおりである。そして、「行動」でしか、現状を変えることができない。基本、サウナに入れば悩みは消えるが、それでも残っているのであれば、行動するしかないということである。
そして私は、上記で述べたSISUのマインド&実践の領域を極めていくことを決断した。そうだ、本場のフィンランドに行くしかない。公衆サウナや、湖のサウナまで、今まで経験したことのない未知の領域への過剰な一歩を選択したい。

サロンの参画により、ライフでもワークでも、自分の興味が自然に湧いてくること、勝手に体が反応して調べたり、体験したり、という3Dなランダムウォークを行うことが人生という旅を充実させてくれると気づいた。サウナや瞑想に限らず、領域を今後拡大していきたいが、まずはフィンランドに行った後のレポートをどこかで発信したい。

13)歩みを進めるポイントは、生まれる「問い」を楽しむこと

M.S(情報・通信)

今回、知の探究サロンに参加させていただき、自身のランダムウォークに挑戦していく中でまず直面した壁がある。いかに自身が足元の業務に直結する効率的な知識の収集に囚われていたかということ(私以外にも多くのビジネスパーソンがその状態にあり、だからこそランダムウォークというスタイルに価値があるのだが)、そしてそれ故に仕事から思考を離したところで「探求したい」と思えるテーマを探すことにすら苦労してしまったのである。仕事と二児の子育てにそれなりに楽しみながら取り組んでいたつもりであったが、社員や部下の知的好奇心を拡張させるべき人事の立場でありながら、また、子どもには「熱中できることを探せ」と言っておきながら、自身の知的アンテナの低さに大いに反省をした。結局自身のオリジナルなテーマを見つけるのに時間を使うよりも、まずは今期の全体テーマであった「コミュニケーションのデザイン」に乗っかる形で、セッションの内容+αで自分なりの探究を実践し広がりを感じてみることにしたのである。

書籍を通じた探究において意識したのは、ネットで書籍を探すのではなく、まず書店に足を運ぶようにしたことである。幸い自宅の近所の書店は話題の本やビジネス書の品ぞろえよりも、カルチャーやテーマ性をもった品揃えや陳列を意識しているようで、その中で「コミュニケーション」をイメージしながら気になったものを手に取るようにしてみた。結果、もともとの自分であれば手に取らないような19世紀のフランスで書かれた心理学の名著などを手にすることになった。

また各セッションでの講演や哲学対話で印象に残った政治の見方、「古いもの」の残し方と「新しいもの」の取り入れ方、倫理の捉え方などの視点を持つことによって日々目にする情報の見え方も変わってきた。世の中で起きている問題の多くが、何らかのコミュニケーションの不具合によるものという見方に立ったうえで、なぜそういった不具合が起き得るのか、そこに対して何をどこまで変えることができそうなのか、といった「問い」が生まれるようになってきた。またそうした問いを増やしていく上で、またそれに対しての答えを考えていく上で、今回新たに手にした書籍だけでなく、過去に軽く読んだだけだった書籍や過去の学びが数珠つなぎに思い出され、読み返したりすることにもつながった。

歴史からの学びや、そもそも「コミュニケーション」という言葉自体がどういう背景から生まれたのか、といった古いものに触れた後は、逆に最新の技術や未来の考え方に触れてみたくなった。ちょうどこのランダムウォークをしている1年の間にもAIの民主化が急速に進み、仕事においてもほぼ毎日何らかの生成AIに触れるようになっていたこともあるが、未来のコミュニケーションはどうなるのか、コミュニケーションの問題を技術はどう解決できるのか、に関心が移っていった。

まだまだ自身のランダムウォークは発展途上であり、もっと「過剰な一歩」を踏み出せる余地も感じているし、この過程で浮かんできた数々の「問い」に対して多くは自分なりの答えを出しきれてはいない。しかし重要なのは答えを出すことというよりも、まずはこのランダムウォークを楽しめているか、ということだとも思う。自分の中で生まれてくる問いの角度が変わってきたことを私は明らかに「楽しんで」いるし、楽しみながら歩みを続けることによって過剰な一歩につながる感覚は得られ始めている。

14)言葉の使い手“コトバツカイ”として、丁寧に、時に大胆にコミュニケーションする

岸 秀一朗(電気機器)

1.この1年間の変化(未知の領域がどのように広がったか)
言葉(とりわけ言葉づかい)への感度は高い方であると自負していたが、この1年を経て、「言葉」という存在の捉え方が強烈に更新された。言葉は何かを表現する道具だと考えてきたが、それだけでなく、言葉は何かをつくりだす主体になりうる。主従逆転のような衝撃的な感覚である。

(1)サロンに参加する前の捉え方|言葉で、人や社会を説明する、現像する
言葉は、人や社会(またはそこで営まれる様々な物事)を言い表すための道具。言葉をつかうという手段によって、出来事や概念について話し合ったり、記録に残したり等の目的を果たす。ただし、どこまで言葉を尽くしても全てを網羅することはできず、必ず情報の省略が起きる。言葉は、人や社会の「部分」を切り取ったもの。客観的に正しく切り取っているか、多くの人にとってしっくりくる言葉が選ばれているかがしばしば論点になる。

(2)サロンに参加した後の捉え方|言葉が、人や社会をつくる、更新する
言葉は、単に特定の目的のために使いこなされる道具であるというよりは、それを使うことによって目的自体を設定し、使い手の在り方を表現する(ローティ)。言葉は「何か」を伝える手段でありながら、使い手の思考や感情によって伝え方(伝わり方)にゆらぎが起きうる。このゆらぎによって当初の目的であった「何か」が少し違うものに置き換わる。この時、正しいか正しくないかの議論は必要ない。言葉にした結果が「主」となり、そのとおりに姿形が変わっていく。

2.ランダムウォークの足跡
上述の変化に至った経緯及びランダムウォークの過程で得た新感覚を遡る。

(1)ユニット1 “キャラ”
言葉を選ぶと“キャラ”が選ばれる。(つかう)言葉が変われば、別の“キャラ”と見做される。文学作品に登場する様々な人物の言葉づかいから、そこに表出する性格や基本態度(いわゆるキャラ)を分析・考察する研究は新鮮であった。ある事象に対して何らか言葉を用いて反応する瞬間が、その場での自分の“キャラ”が発動する瞬間。逆に言えば、そこでどう反応するかによって自在に“キャラ”をつくる(演出する)ことができると言える。

(2)合宿 “禅問答”
既に言葉になっているものを、とらえなおす。先人の言葉で語り残されたもの(確からしく規定されているもの)を、一度、解く。額面通りに受け取って「分かった」と片付けず、自分のフィルタで解釈した結果を自分の言葉で紡ぎなおす。それをどう呼ぶか、どう説明するかによって、「それが何であるか」が時間をかけて更新されていく。禅問答の世界を垣間見て、自由で過酷な言語コミュニケーションの営みを想像した。

(3)ユニット2 “五感”
すんなり理解できないもの、明瞭な言葉で説明されないものに対峙する、時間を惜しまず向き合う。そういう気構え(または耐性)を失いつつあるのではと危機感を覚えた。遠州茶道体験が「結局よく分からずじまい」であったと困惑する参加者と、それに共感してしまっている自分。「すぐ分かる」は心地良く、「すぐ分からない」は心地悪い。ふだん私たちは、すぐ分かろうとしすぎていないか。手頃な言葉で完結できそうなものを優先し、そうでないものを後回しにしていないか。そのリスクを知り、何かを言葉にする時には易きに流れないようにしたい。

(4)ユニット3 “私たち人間や社会は受肉したボキャブラリー”
「『人間や社会は具体的な姿形をとったボキャブラリーである』ということは、どんなことばづかいをするかによって人間は変わる、という帰結をもたらします。ことばづかいが変われば人間は変わるし、流通することばが変われば社会も変わるのです」(朱喜哲著『ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』』NHK出版)。これは、言葉で言い表した結果そのものが未来を形成していく可能性を示唆する。

3.私たちは、言葉の使い手(コトバツカイ)であるという事実
人や社会は「言葉」なしに成立しない―どころの話ではない。むしろ「言葉」が、人や社会の進化をリードしうる。「どう言うか(いつ、どこで、誰が、どんな間で・・・)」によって「どう伝わるか」が決まり、伝わり方(伝わった結果)が、その後の人や社会の行動に影響を与える。仮にそれがちょっとした“言いまちがい”だったとしても、誰にも気付かれないまま(または容認されたまま)であれば、時間をかけてその表現を常用する社会に変わっていくかもしれない。言葉によって、自分のキャラを自由に決められるし、先人の言葉を置き換えることもできる。言語化に時間をかけることも、もっと許されていい。私たちは言葉の使い手=“コトバツカイ”である。自分もその一人として、オープンに、丁寧に、時に大胆に、日々の会話を楽しみながら言葉の進化に貢献していきたい。

15)4つの視点から学ぶ、コミュニケーションの妙

S.T(メーカー)

はじめに
コミュニケーションの本質とはどのようなものだろうか。

近年、若年層で使われる「コミュ力」や「コミュ障」のように、コミュニケーションに長けているということが一つの能力として認知されつつあるが、その実、はその能力について、どのような素養をもってコミュ力が高い・低いと言えるのかどうか、よく理解できていないのではないだろうか。

よいと思ったコミュニケーション機会があったときに、その「コミュニケーション」を「より良いコミュニケーション」たらしめていたのはどのようなことからだっただろうか。
コミュニケーション上手でいるためには、我々はどのようなことに優れている必要があるのだろうか。

人事部門は時に社員に対して情報を発信し、また社員から情報を受け取ることも往々にしてある。筆者の所属するチームでは弊社の関連企業を含めてすべての社員に対するアナウンスメントを作成することもある。自身の業務品質の向上も狙いつつ、今回リクルートワークス研究所が主催くださった2025年の「コミュニケーションのデザイン」を学ぶためのランダムウォークに参加して得た学びから、自分なりに考察する。

ランダムウォークについて
当年のランダムウォークについては全3ユニットにオプションセッションが加わり、4セッション、つまり4つの視点から「コミュニケーションのデザイン」について学んだ。ランダムウォークにおいては、例えば今回のようにコミュニケーションを学ぶ場合でも、コミュニケーション学の軸から学ぶという直接的なアプローチはとらず、まったく別のように見える分野での学びから学ぶという間接的なアプローチをとることが非常に興味深い。

①情報発信側
ランダムウォーク第1ユニットでは、映像作品や出版作品におけるキャラクターの設定について、言葉の表現の仕方やそもそもの言葉選び方が相手に与える印象を大きく変化させ得るという点が指摘された。
言葉を「紡ぐ」つまりどのように「表現する」かが、情報発信側にとって最も重要であるとここでは考えた。情報発信側の考えや個性が、受信側の個性によって理解されるものだと考えると、この言語表現はアートにも近しいものだと言えるのではないだろうか。

②情報受信側
第2ユニットでは茶の湯の学びからコミュニケーションのデザインをつかんでいく。コミュニケーションという眼鏡で茶道を見たとき、非言語的コミュニケーションのオンパレードであることに気が付いた。主人が点てる茶だけではなく、茶菓子の季節感や掛け軸や生け花から読み取ることができる主人からの思いやりとおもてなしは、客側も同様に教養を深めていくことによってより理解が深まると考える。つまり、相手を「尊び」「理解する」ことで、より深い感謝とつながりが相互に湧くようなコミュニケーションへと昇華する可能性があることを理解すべきだろう。

③コミュニティへのコミュニケーション
第3ユニットでは、哲学の視点からコミュニケーションを紐解いた。コミュニケーションはそれが行われる場所において、その倫理感や適法度合いについて、高度なものが 要求される手が重要であると理解した。どの程度社会に利する情報であるのかという点も、その情報が受け入れられるかにおいて重要ではあるが、より公的な場において公共性の高い情報が提供されるとき、その情報の提供のされた方や表現などについては、十分気を配る必要がある。

④オプションセッション 秩父合宿
夏の真っ盛りに幾分の涼と学びを求め、秩父へ赴いた。秩父の商店会でのユニークな活動(夜中に市場を実施している)の開催から現在に至るまでの紆余曲折のお話を商店会長よりお伺いし、コミュニケーションの本質にはっとさせられた。コミュニケーションはそもそも発信側と受信側がそろって初めて行うことができること、そして発信側が受信側に何かを理解してもらう、または行動してもらうことが本質であり目的である。
発信側の意図を理解し、賛同者が増えたり仲間ができたりとしたとき、コミュニケーションについて達成感を味わうことができるのである。

最後に
人事という仕事はつかみどころがないがゆえに実に幅が広いものだと思うことがある。しかし、人対人の仕事である以上、そこには必ずやコミュニケーションが必要となるときがくる。そんなとき、今回の学びをゆっくり噛みしめることで、どんなに難しい問題でも突破口はできてくるのだろうと感じた。
今回のランダムウォークすべての関係者諸氏に心より御礼を申し上げつつ、本レポートを終えたい。

関連する記事