成功の本質
第93回 バーミキュラ ライスポット/愛知ドビー
小さな町工場はいかにして世界進出をねらう企業へと変身できたのか
東京・秋葉原の家電量販店。台所家電売場に入ると、「世界一、おいしいご飯が炊ける炊飯器」を目指した「バーミキュラライスポット」の専用コーナーがつくられている。炊飯のほか、自動調理器として、食材から出る水分だけで煮炊きし、素材本来の味を引き出す無水調理や、温度を100℃以下に保つ低温調理もできる。定価7万9800円(税別)ながら、2016年12月の発売前から予約が8000件を超え、年間5万台の販売計画を上回る売れ行きだ。有名料理店での採用も相次ぐ。日本経済新聞社の2016年第4四半期新製品ランキングでは1位に輝いた。
売場では、製造販売元である愛知ドビーの正社員の販売員が、来店客に懇切丁寧に商品説明をしていた。都内だけでも14の取扱店舗で販売員が常駐しているという。「これ、今日ここで炊いたんです」。早速試食してみる。食感もよく、米の甘みと香りが際立っている。なぜこの味が出せるのか、説明に聞き入っているうちに、40〜50分が経過していた。販売員の熱心さも印象的だった。
名古屋市の本社兼工場へ。開発を担当した土方智晴(ひじかたともはる)副社長に秋葉原での話をすると、「うちはものづくりの職人の会社です。お客さまに喜んでいただくのがゴールで、職人の喜びでもある。だから、製品の価値を一生懸命お伝えするのです」
10年前は油圧部品を製造する従業員10名ほどの町工場だった。それが大ヒットした鋳物ホーロー鍋を経て、今はライスポットで世界進出をねらう。2段階のイノベーションにより売上高は25倍、従業員数は20倍に。この劇的進化は、「自分たちはどんな会社であるべきか」という強い意志によって実現した。それは「企業変身(トランスフォーム)」と呼ぶにふさわしい。企業はどうすれば、変わるのか。創業者から3代目の40代の兄弟が成し遂げた愛知ドビーの変身の軌跡をたどる。
世界にない最高の商品をつくる
初代により鋳造業として設立されたのは1936年。愛知は繊維産業が盛んだった。鋳造技術に加え、精密機械加工技術を磨き、織物の一種、ドビー織の織機を開発して発展。2代目が継承した1980年代の最盛期には売上高は7億円、従業員約60名の規模を誇った。ところが、繊維産業は衰退。2001年、豊田通商で為替ディーラーをしていた長男の土方邦裕(くにひろ)(現社長)が父親の求めに応じ、27歳で入社したときには売上高は2億円に落ち込んでいた。しかも、2億円の債務超過が判明。邦裕はまず鋳造部門を立て直すため、技術を習得しながら営業に奔走。業績は上向き始めた。5年後の2006年、トヨタ自動車で会計業務をしていた弟の智晴が兄から精密加工部門のテコ入れを頼まれ、29歳で入社。持ち前の集中力で技術を身につけ、わずか1年間で社内一の腕を振るうまでになった。
2人は、小規模ながらも鋳造と精密加工の2つの技術をもつ、他社にない強みを生かし、高品質と高精度が求められる船舶や建設機械の油圧部品に挑戦。大手の3次下請けから始めて1次下請けへと昇格し、売上高も5億5000万円にまで回復した。だが、開発担当の智晴には満足できない思いがあった。下請けの宿命で毎年コストダウンを求められる。新しい提案をしても、中間の商社にメリットがなければ潰される。このままで会社に発展はあるのか。「自分たちで最高の商品をつくり、直接最終ユーザーに届けるような事業をしないと自分のモチベーションが続かない。それが本音でした。当時は消費者がインターネットで高額の商品を購入する動きが出ていました。うちみたいな町工場でも、世界にない最高の商品をつくれば、直接お客さまとつながるビジネスができるのではないか。そう考えたのが始まりでした」(智晴)
ある日、智晴が本屋に行くと、鋳物にホーロー加工を施したル・クルーゼというフランス製の鍋でつくる料理の洒落たレシピ本が何冊も並ぶ光景が目に入った。すすや油で汚れた工場でつくる鋳物が、現代の女性の心をつかむ製品に結びつく。それは「衝撃的な発見」だった。
1万個以上の試作を重ねる
ただ、「世界最高の鍋」と評価されていたのはステンレスとアルミを張り合わせたドイツ製や米国製の鍋で、フタと本体の密閉性が高く、無水調理ができた。一方、鋳物は溶かした鉄を冷ます過程でひずみが生じるので、密閉性が劣った。しかし、実際に料理して比べると、味は鋳物ホーロー鍋のほうが勝ったのだ。鋳物に多く含まれる炭素とホーローから発生する遠赤外線により素材の内部からも加熱されるためだった。
自分たちの精密加工技術で密閉性を極限まで高めれば、「世界一、素材本来の味を引き出す鍋」ができる。熟慮型の弟とは反対に「考える前に動く」タイプの兄が「ホーローは業者に頼めばいい。3カ月でできる」と決断。2007年、開発が始まった。ところが、調べると、国内業者は鋳物にホーロー加工を施す技術をもっていなかった。ガラス質の釉薬を吹きつけ、800℃で焼成する際、鋳物のなかの炭素が気化し、表面が泡だつ問題を解決できなかったのだ。ル・クルーゼは技術を公開していなかった。
協力を求めた業者にも途中で匙を投げられ、結局、自社で設備を入れ、独自開発に。苦闘が始まる。失敗の連続。それでも一部分でもホーローができていれば、そこの組成を調べる。昨日できたことが今日できなければ、条件の違いを探る。1個1個、仮説と検証の繰り返し。最終的に鉄に調合する元素を通常の7種類から13種類に増やし、配合の絶妙なバランスを見つけ出すのに1年を要した。
次の課題は密閉性だった。精密加工で密閉性を高めても、ホーロー加工の焼成工程の熱で鋳物自体が歪んでしまった。この問題と格闘する途中、リーマンショックの余波で業績が急落。新規開発の費用の分だけ赤字となった。智晴は責任を感じ、その時点でもル・クルーゼと同等レベルの鍋は製造できたため販売開始を提案したが、「世界最高の鍋ができるまで頑張ろう」と邦裕が押しとどめた。さらに1年半、1万個以上の試作を重ね、高熱でも歪まない材質を開発。2010年2月、0.01ミリの精度まで密閉性を追求した世界初の無水調理対応の鋳物ホーロー鍋「バーミキュラ」の発売にこぎつけた。
当初、販売は自社オンラインショップからの直販に絞った。人気料理ブロガーに鍋を提供。使った感想を発信してもらったところ、評判が口コミで広まった。多くのメディアでも紹介され、2万円を超える価格ながら、一時は注文後15カ月待ちになるほどの人気商品となった。
未踏の家電分野への挑戦
販売面で特に重視したのが、顧客の声と真正面から向き合うことだった。コールセンターを自社内に設置。バーミキュラで100種類以上の料理がつくれる、他社製品との調理の比較の経験があるなどの要件をクリアした社員が顧客のあらゆる質問に対応。即答できなければ、社内のキッチンスタジオで自ら確認してから答えた。こうして顧客の声を拾い上げるなかで浮上したのが火加減の問題だった。無水調理は弱火で行うが、火加減をうまく調節できていない顧客もいることがわかった。智晴が話す。
「必ずしも誰もが最高の味を引き出せているわけではない。ならば、バーミキュラに最も適した熱源もセットにしてはどうか。ただ、それは家電製品になる。当社に技術もないし、安全性の問題もある。私としては容易に踏み出せませんでした。やろうと思ったきっかけは海外でした」
フランスと米国への進出をねらい、市場調査に出かけたときのことだ。鋳物ホーロー鍋の「本場」だけに価格競争が激しく、バーミキュラは現地の売れ筋商品の2倍の価格になってしまう。性能は明らかに上なのに、外見は同じであるため、同一のカテゴリーに見られてしまい、「2倍の値段では買わない」との答えが多かった。
「そこで思いついたのが、世界最高の鍋を使った世界最高の自動調理器ならば、かつてない新しいカテゴリーになるということでした。ただ、新しい分、それはリスクもともないます。それをどうカバーするか。そのころ、国内ではバーミキュラで炊いたご飯は格段においしいという声が多く聞かれていました。そこで、世界戦略商品としては新しいカテゴリーの自動調理器をつくる。一方、日本では炊飯器という既存のカテゴリーに入れて打ち出す。それが、創業80年の歴史があり、会社の存続が至上命題だったわれわれの戦略でした」(智晴)
熱源となるIH(電磁誘導加熱)の技術はなかったが、楽観主義の邦裕が決断。2014年、再び開発が始まった。 目指したのは、バーミキュラを使ってガスの直火で行う調理の再現。直火では鍋の周りの空気の層も高熱になり、立体的に加熱される。一方、IH調理器では埋め込んだコイルから発生する磁力線により鍋底に電流が生じ、その電気抵抗で鍋底自体が発熱する仕組みだ。底面しか加熱されない。そこで側面にもヒーターを入れ、立体加熱を可能にする。鍋全体が直火で加熱したときと同じ温度分布になるよう、徹底してこだわった。熱源の開発は調理機器メーカーに協力を仰いだが、その業者も愛知ドビー側のこだわりに同調できず離脱し、再度独自開発に。自分たちでコイルの巻き方から研究し直し、配置する場所も少しずつ変えながら、最適解を探っていった。
町工場でもやればできる
炊飯は高温加熱するため、密閉性が高いと吹きこぼれる課題も難題だった。家電の炊飯器では蒸気を逃がす弁をつけるが、それではバーミキュラ本来の形ではなくなる。試行錯誤の末、フタの裏側の一部に溝を掘り、内部気圧が高まると、ほかの部分より軽い溝の部分が浮いて蒸気を逃がすようにした。また、家電の炊飯器では保温用の内ブタがつくが、これも同じ理由で取りつけず、保温機能はあえて省いた。結果的に、外気に触れる鍋の上部と加熱される下部との間に温度差が生じて激しい熱対流が起こり、1粒1粒がむらなく炊き上がるようになった。「鋳物は鉄でつくる造形で、余分なものをつけず、形状だけで性能を発揮する。1円のコストもかからない。鋳物の美学ともいうべきもので、そこは譲れなかった」(智晴)
開発を横で見ていた邦裕も語る。
「副社長は、バーミキュラとしてのデザインに徹底してこだわり、そのデザインのなかですべての問題を解決しようとした。その分、開発には時間がかかりました。だからこそいいものができたのだと思います」
開発開始から3年、途中、「心が折れそうになる」(智晴)ほどの失敗を重ねながら、2016年12月、発売にこぎつけた。半年後の2017年5月、油圧部品事業は同業者に技術ごと譲渡した。2017年8月には米国に支店を開設。いよいよ世界戦略を開始した。邦裕によれば、下請けから脱しようと決意した際、「10年後に家電を手がけるとは思っていなかった」という。
「ただ、使う技術も設備も変わっていない。変わったのは、業者に頼ろうとしたホーロー加工が内製化できたことで、町工場でもやればできると思うようになったことです。だからライスポットにも挑戦できたのです」
コアの技術をもち、会社をどう変え、何をつくるかという意志が明確であれば、専門外であっても必要な技術を外から取り込み、新たなコアコンピタンス(他社に真似できない能力)に加えることもできる。日本の中小企業は後継者難などから「大廃業時代」を迎えつつあるといわれる。愛知ドビーの若手経営者による「社内起業」を介した企業変身は、日本経済を支える中小企業の勝ち残り戦略の1つのモデルを示している。(文中敬称略)
Text=勝見 明
過去が今を決めるのではない
未来によって過去が意味づけされ今が決まる
一橋大学名誉教授
愛知ドビーはなぜ、「世界最高」の製品を生み出せたのか。そこには企業の存在論がかかわる。
われわれは何のために存在し、いかに生きるか。究極の課題をひたすら追究した 20世紀最大の思想家ハイデガーは、「自分はどうありたいか」という未来の可能性が見えて初めて、過去に蓄積した知が新たな意味をもつようになり、未来と過去が一体となって、今の生き方が決まると説いた。
愛知ドビーも、自らの存在論を突き詰めながら、消費者と直接つながるビジネスを模索した。そして、鋳物ホーロー鍋や自動調理器という未来の可能性が見えたとき、過去に積み上げたコア技術や「鋳物の美学」に新しい意味が生まれ、イノベーションを目指す道が開かれた。未来に起点を置いた愛知ドビーの発想はきわめて示唆的だ。
兄弟が、自社のもつ知に新しい価値を生み出すことができたのは、自らも職人としての技をきわめ、その本質を見抜いていたからだろう。弟の智晴氏がわずか 1年で「社内一の腕」を会得できたのは、氏によれば、「死にもの狂いで現場で見て覚えては本やネットで調べて」を繰り返したからだという。アートの暗黙知に加え、サイエンスの形式知も身につけた「知的職人」のあり方だ。
だからこそ、職人道を追求しながら、未来を起点にした新しいコンセプトを描き、日々の蓄積のなかでの飛躍、連続のなかの非連続によるイノベーションを実現できた。そして、同じ職人であることで従業員たちと鋳物の美学を共有し、その実現に巻き込むこともできたように思う。
2人は社外に向けても、当初は異業種企業とのコラボレーションを志向した。当然、ある種の摩擦が発生する。そこで妥協し、足して2で割る平均値を選んでいたらイノベーションは起きなかった。どちらかが強いリーダーシップをとる必要があり、結果、相手方は離脱し、自主開発となった。最近はオープンイノベーションが注目されるが、その難しさを示す例でもある。
もう1つ印象に残ったのは、理論派と行動派、対照的な兄弟のトップ 2人の相互作用により、思考と決断がスパイラルに回り、創造性が喚起される「クリエイティブ・ペア」が見事に機能していたことだ。ホンダの本田宗一郎と藤沢武夫、ソニーの井深大と盛田昭夫の例は広く知られる。松下幸之助にも高橋荒太郎という大番頭がいた。トップの絶妙なペアリングも、イノベーションを生む1つの条件であることを改めて実感させられた。
野中郁次郎氏
一橋大学名誉教授
Nonaka Ikujiro 1935年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。カリフォルニア大学経営大学院博士課程修了。知識創造理論の提唱者でありナレッジマネジメントの世界的権威。2008年米経済紙による「最も影響力のあるビジネス思想家トップ20」にアジアから唯一選出された。『失敗の本質』『知識創造企業』など著書多数。