成功の本質
第79回 MIRAI/トヨタ自動車
世界初の市販燃料電池車は日本流「物語り的戦略」で生まれた
東京タワーの足元、東京・芝公園に産業ガス大手の岩谷産業が今年4月に設置した水素ステーション。ある日の午後訪ねると、ガソリンの給油機のような形の水素充填機が2機並んでいて、その前に1台のセダンがスーッと滑り込んだ。トヨタ自動車が昨年12月15日に発売した世界初の市販の燃料電池車(FCV)、MIRAI(ミライ)だ。空気を取り込むフロント両サイドの大きな三角形のグリルが目を引く。
ノズルを接続すると、水素の充填はすぐに終わる。「運転中はほとんど音がしません」とドライバー。都心部の水素ステーションは、今はここ1カ所のみで、次々と色とりどりのミライがやってきては走り去っていく。政府が描く「水素社会」では、これが普通になるのだろう。そんな「未来」を予感させる光景だった。
FCVは、燃料電池(FC)のなかで水素と空気中の酸素を化学反応させて電気をつくり出し、モーターを回して動力とする。排出するのは水だけで、「究極のエコカー」と呼ばれる。ミライの場合、水素のフル充填時間は約3分。航続距離は約650㎞。電気自動車(EV)は普通充電で7〜8時間かかり、航続距離も200㎞前後だ。価格はかつては1台1億円といわれたが、ミライは723万6000円。政府の補助金(202万円)などを適用すれば、実質的に500万円前後と、「クラウン並み」で一般にも手が届く範囲だ。
実際、発売1カ月で受注は約1500台と年間販売目標400台を4倍近く上回った。マスコミは「水素社会元年」と盛り上がり、安倍晋三首相も芝公園の水素ステーション開所式に自ら足を運び、「水素革命のアクセルを踏み込んでいく」と決意を語るなど、ここに来てFCVへの注目度が急速に高まりつつある。この状況に誰よりも驚いているのが、ミライの開発責任者を務めた製品企画本部ZFチーフエンジニアの田中義和だ。
「いいものをつくれば、出口の状況が想像以上に変わるだろうとはぼんやり思っていました。ただこれほどまでとは思いませんでした。入口の状況とは全然違った。最近の世の中の盛り上がりは正直怖いほどです」
田中がそう語るのも無理はない。プロジェクトが発足したのは2011年末。前年には日米でトヨタの大量リコール問題が火を噴き、業績もリーマンショック後の不況により、4期連続の営業赤字(単体)が確実視されていた。そんな逆境下でトヨタはFCVの製品化に踏み切ったのだ。何が後押ししたのか。
分析的戦略vs物語り的戦略
事業において何をすべきかを判断する方法には2つの論法がある。「①外部要因を分析し(大前提)、②社内の状況も分析し(小前提)、③論理的に答えを導く(結論)」のが論理的三段論法だ。これに従えば、不況下でインフラも未整備でリスクの高いFCVの量産化を単独赤字のトヨタが行うなど論外だろう。
一方、「①目指す目的があり(大前提)、②目的を実現する手段がある(小前提)、ならば実現に向け行動を起こすべきである(結論)」と考えるのが実践的三段論法だ。トヨタには「低炭素社会の構築」という大きな目的があり、実現するための手段も開発が進んでいた。ならば行動を起こすべきである。FCVの製品化はまさに実践的三段論法によるものだった。
論理的三段論法に基づく米国流の「分析的戦略」は環境変化に対応しにくい。一方、実践的三段論法では、不確実性が高いなかでも、その都度、「目的→手段→実行」のサイクルが回って、次々と新たな展開が生まれ、成功に至る物語りが生成される。その意味で「物語り的戦略」といえるだろう。ミライは先端技術が注目されることが多いが、ここでは開発過程をたどり、日本企業が本来得意としてきた物語り的戦略のあり方を見てみたい。
物語りの始まりは田中の登場場面だ。「今夜、話がある」。2011年12月、田中は初代プリウスからハイブリッド車の開発を担ってきた小木曽聡から声をかけられた。田中はプリウスのプラグインハイブリッド(PHV)車の開発責任者を務め終えたところで、次はどこへ移るのか、緊張して出向くと意外な話が待っていた。
「今度はFCVをやってもらう」。2011年の秋、東京モーターショーにFCVがコンセプトカーとして出展されたときは、横目で見ながら、「トヨタも今後はFCVをやっていくんだ」と他人事のように思っていた。「ぼくでいいんですか」。戸惑ったが、その後の展開は田中が適任者であったことを示すことになる。
次は物語りの同行者だ。各部門から集まった技術者のほか、不可欠な部隊があった。FCVの研究開発はプリウス以前の1992年から始まっており、その流れをくむFC技術部だ。FCVの可能性を信じ、社内公募に応じた面々で、設計部と生産技術部が同じフロアで机を並べる先進的な取り組みを行っていた。「ただ、最初はとっつきにくかった」と田中は言う。
「彼らは世界初を目ざす困難な取り組みを続けてきたプロ集団でしたが、製品化の経験がなく、社内的にも製品化を疑問視する声もあり、どこか孤高の存在でした。一方、私には発売という出口の責任があります。この段階でここまで進めようと求める。彼らからすれば、外から急に来てあれこれいわれるわけで、まじめな分、"そんな約束はできない"と反発する。でも条件を緩めたらいいものはできません。連日、激しい議論が続き、"いい加減にしろ"ときつい口調になることもありました。ただ、議論をやればやるほど相手の思いや執念を感じた。最後は本当の仲間になりました」
コストを20分の1にする
激しい議論は、1つの開発コンセプトに結実する。「H2 Pioneer for the Next Century 〜 自動車の次の100年のための水素エネルギー社会の先駆者となる」。20年にわたる執念を形にするには、「このくらいの大風呂敷が必要」と思ったという。このコンセプトは田中と同行者たちに2つの大きなテーマを課すことになる。1つは、「先駆者」の名に恥じないFCVをつくる。もう1つは、環境車でもユーザーが「買いたいクルマ」にする。それはプリウス以来受け継がれた課題だった。
どうやって、買ってもらえるクルマにするか。大きいのは価格の問題だった。田中が話す。
「たとえば、FCは2枚の電極板で触媒を挟み、その両側を厚さ0.2ミリのチタン板で挟んだものを370枚重ねます。チタン板には超微細孔が開いていて、それらを一つひとつ開けると途方もない金額になる。これをプレスで同時に開ける技術を開発できればコストは激減する。1台1億円といわれたのを20分の1にする、コストダウンの9割は量産化技術の確立で実現できた。それにはサプライヤーの技術の高さも必要でした」
チタン板加工は、本来はシートメーカーだったトヨタ紡織が挑戦した。ミライのプロジェクトはサプライヤーにとっても、変化に対応していく物語りだった。
デザインの問題も大きかった。田中はFC技術部にFCの高出力化と同時に小型化を求めた。FCは前席シート下に配置する。その分、車高が高くならないようにする。それでもクラウンより数センチ高くなった。解決策はデザイン部隊が出してくれた。横から見て、前方、中央、後方の3本のピラー(屋根を支える柱)を黒くし、厚みを感じないようにする。問題点を車両設計でカバーすることもあり、「みんなに無理を聞いてもらいました」(田中)。
そこで問われたのはリーダーとしての力量だった。チーフエンジニアにはプロジェクトにおける人事権も評価権もない。どうやってメンバーを動かすのか。
「トヨタの開発責任者にはヒエラルキー的な力はなく、持てるのは説得力ぐらいしかありません。A案も、B案もそれぞれに理由があり、若手がコストと性能、両面からA案を主張したとき、私はそれを認めつつも"長い目で見たときはどうなのか"と疑問を投げかけ、"今回はデザインを成り立たせるのも大事だから、もう一踏ん張りしてみてくれ"とB案を推す。論理で決めきれないことをいかに論理的にいうか。それを通して、いいものをつくるという思いを伝える。"俺のいうことを聞け"ではメンバーは面従腹背になるだけです」
プロジェクトには"未知の敵"も存在した。機械系なら技術の蓄積で対応できる。FCはケミカルの世界。解明困難な問題によく直面した。たとえば、同じ仕様の材料なのに同じ性能が出ない。メンバーは当面の対策を講じ、開発を続行しかけたが、このときは田中が「自分で腹落ちしないと、後で必ずしっぺ返しを食らう。それでは責任を果たしたことにはならない」とストップをかけた。時期は最終フェーズ。日程の遅れが危惧されたが、田中は設計や生産技術などの縦のラインの部長たちとも毎朝協議する場を設け、了解を得ていった。
もう1つ、"隠れた敵"もいた。田中自身の内なる不安だった。コンセプトを固め上層部や各部門に説明に回った初期のことだ。その不安を払拭させたのはトヨタとしての大きな物語りと同行者たちへの思いだった。
「FCV開発に対しては当初、社内でも一枚岩ではなく、厳しい声が聞かれました。不具合を出したら、会社にどれほど損害を与えるかわかりません。企画を通すのが本当にいいのか、私自身一時悩んだのです。でも、1992年から多くの仲間が心血を注いできた。トップは腹を固めている。ならば、みんなが納得する形で企画を通すのが私の仕事ではないか。今が千載一遇のチャンスで、やらないリスクのほうが高い。腹をくくってからは、知恵を絞って賢い開発を行うのでやらせてほしいとかけずり回り、承認を得ていきました」
提案が正式に承認されたのは発足から約1年後の2013年2月。通常より長くかかったが、逆に「かけずり回り」の成果で多くの部門、サプライヤーの支援を受けることが可能になった。すると、取り巻く状況も変化し、フォローの風が吹き始める。同年6月、安倍政権はアベノミクス第3の矢として発表した「日本再興戦略」でFCV推進へと大きく舵を切った。トヨタ側も呼応して同年10月、東京・晴海埠頭で内外のジャーナリストを招待し、試作車について異例の試乗会を開催。「トヨタは本気でFCVに取り組んでいるのか」と疑問視するマスメディアのネガティブな声を一掃した。
章男社長の意外な依頼
トップの豊田章男社長も動き始める。2013年秋、試作車に同乗した際、田中は「モリゾウ」の名でレースにも出場する豊田から予想外の依頼を受けた。「1年後の全日本ラリー選手権でFCVを先導車として走らせ自分がハンドルを握る。ラリー仕様をつくってほしいハードな走りを見せ、水素が燃料でも腫れ物に触るような危険な技術じゃないことをちゃんと示そうよ」翌年、ラリー仕様車は見事にコースを走り抜けて見せた。
車名もギリギリまで別の名前になるはずだったが決裁の署名をしながら豊田が「本当にこれでいいのかな」と漏らした。新たに決まったMIRAIの車名には海外の事業責任者からも賛同の声があがった。
2014年6月、年内の発売と価格を発表すると、マスメディアは一斉に報道。トヨタ内部でも意外な動きが起きた。本来は知的財産を守るのが仕事の知財部門がFCV関連特許の実施権を2020年まで無償提供することを立案したのだ。「これも、FCVについてはより多の人や企業に参入してもらい、水素社会の実現を目指そうという思いからでした」。
全社一丸で推進。それを物語る出来事が「最後の最後の局面」にあった。急遽、デザインを一部変更することになり、日程を管理する進行会議で、「2カ月延ばさせてください」と田中が頭を下げたときのことだ。「いや、延ばす前提ではなく、みんなでチャレンジしよう」。そう発言し、背中を押したのは、本来なら申し出に苦言を呈するはずの生産技術の役員だった。
2014年末、販売開始。2カ月後の2015年2月24日、愛知県豊田市内の元町工場でミライのラインオフ式が行われた。5年前の同じ日、豊田は米下院公聴会で大量リコール問題の厳しい追及を受けていた。以来、2月24日を「トヨタ再出発の日」と定めた。その日をあえて量産開始日にする。それはトヨタがミライとともに新たな物語りに踏み出すことを象徴したのだった。
議論した相手ほど頼りになる
4年に及ぶプロジェクトについて、「自分はコミュニケーション重視のリーダーだった」と田中はこう振り返る。
「権限が1人に集中する欧米型のリーダーシップとはやはり違う。コミュニケーションをとりながら、最後はみんなに"俺に任せておけ"といってもらえる形がいちばんいい。たとえば、最後のほうで生産現場から、どうしても設計どおりにはつくれない箇所があるといってきました。そのときも、"受けた以上は申し訳ない"と別の方法を考えて解決してくれた。途中までは喧々囂々とやり合った相手です。激しく議論した人間ほど、最後は頼りになった。一人ひとりがリーダーになることでチームがリーダーの集団、いわば、"リーダーズ"になった。それがミライのプロジェクトでした」
分析的戦略においては競争環境などから課題の優先順位が決まる。一方、ミライの開発では、FCの性能や信頼性、価格、「かっこよさ」や「走りの楽しさ」など、その都度、議論しながら優先順位を判断し、「目的→手段→実行」のサイクルを回していった。物語り的戦略の特徴は人材の自己成長が促されることだ。
内向きだったFC技術部の面々は製品化を経験したことで一皮むけた。設計も生産の部隊も未知の技術と出合い、新たな知識を蓄積した。サプライヤーも技術の変化に対応することで進化を遂げた。ミライの開発物語りは、トップの豊田章男社長以下、かかわった一人ひとりの当事者たちの物語りの集積でもあった。
「その過程でいちばん成長したのはリーダーの私かもしれません。最初から自信満々でできたわけではなく、悩みながらやっているうちに自信がついた。悩んだ量はPHVのときとは比較になりませんでした」
トヨタは予想外の需要を受け、初年度の700台から2年目は2000台、3年目は3000台規模へと生産能力の引き上げを決定。政府も今年度中に全国100カ所で水素ステーションの整備を目指し、2020年の東京オリンピックを、日本の水素関連技術の見本市にする方針だ。ミライのプロジェクトで育った人材が2代目、3代目の開発を担い、物語りを繰り広げていく。来るべき水素社会において、先頭を走り続けるトヨタの姿をわれわれは目にすることになるだろう。(文中敬称略)
Text=勝見明
ジャーナリスト。東京大学教養学部中退。著書『石ころをダイヤに変える「キュレーション」の力』『鈴木敏文の「統計心理学」』『イノベーションの本質』(本連載をまとめた、野中教授との共著)『イノベーションの作法』(同)『イノベーションの知恵』(同)『全員経営』(同)。
「破壊的イノベーション」は論理分析的な戦略では起こせない
一橋大学名誉教授
「持続的」vs「破壊的」
「戦略の王道」とは、どのようなものだろうか。ハーバード・ビジネススクールのクレイトン・クリステンセン教授は、持続的(サステイニング)な技術改良による「持続的イノベーション」と、既存製品の価値を低減させる技術革新の「破壊的(ディスラプティブ)イノベーション」とを区別した。戦略の王道は後者である。
たとえば、米シリコンバレーのEVベンチャー、テスラモーターズの例を考えてみよう。他社も次々参入しているEV市場において、その製品は高価格帯で富裕層の趣味的な商品の性格が強い。テスラの場合、結局はニッチ市場でより高性能化、より高価格化を志向する持続的イノベーションの域を出ない。これに対し、ミライは既存技術の一段上を行く破壊的イノベーションであり、それは戦略の王道を進んだからこそ実現したと考えられる。
FCVの普及は行政主導となるインフラの整備も絡み、不確実性が高い。外部要因を分析し、最適なポジションを選択する論理分析的戦略では対応は困難だ。FCVの開発にはインフラ整備を行うガス関連企業や、行政や政治との連携など、企業単独ではなく、1つのエコシステム(生態系)を構築する必要があり、その意味でも分析的戦略は明らかに不向きだ。
不確実性が高く、経済合理性も不確定ななかでエコシステムをデザインする。ドラッカーが説いたように、経営(戦略)とは本来、「単に受動的、適応的行動」ではなく、「望んだ結果が生み出されるような活動を行うこと」であり、自由な企業活動に基づき、「経済的状況の限界を継続的に押し返すような経済環境の形成を試みること」であるとすれば、ミライのプロジェクトはまさに、戦略の王道に挑戦したことになる。
物語り的戦略と全員経営
トヨタには、「もっといいクルマをつくろう」というビジョンがある。大きな目的を目指し、その都度、現実のなかでベターな判断を行いながら動いていくと、新しい状況が開ける。それをつなげて大きな物語りをつくり出していく。その場その場でチャンスも取り込み、活用する。外部に対しても、試乗会を開催して現実にモノを見せて巻き込み、あえて「トヨタ再出発の日」にラインオフ式を行い、コミットメントを発信する。
その過程で、論理的矛盾を超えた「連続の不連続」が生まれ、破壊的イノベーションが実現されていく。
田中氏はリーダーとして、どのように論理的矛盾を超えたのか。相反するいずれの主張も論理的に正しいとき、「矛盾を超える論理」で説得しようとしたと田中氏は話すが、その正当化のプロセスを下支えしたのは、明らかに自身の豊富な経験知や信念だろう。論理的矛盾を超えるにはロジックだけではなく、やはりアートの世界が必要なのだ。
一連の物語りで印象的なのは、トップの適切なコミットメントだ。ミドルリーダーはトップの示すビジョンに呼応しながら、フロントの知恵を結集し、ときには縦のラインも利用するなどして政治力も駆使する。フロントも自律分散的なマネジメントのもとで実践知を発揮する。物語り的戦略は全員経営や衆知経営のもとで成り立つことを示すミライ・プロジェクトは、日本企業の持つ本来の強さを再確認させる。
野中郁次郎氏
一橋大学名誉教授
Nonaka Ikujiro 1935年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。カリフォルニア大学経営大学院博士課程修了。知識創造理論の提唱者でありナレッジマネジメントの世界的権威。2008年米経済紙による「最も影響力のあるビジネス思想家トップ20」にアジアから唯一選出された。『失敗の本質』『知識創造企業』など著書多数。