大人が再び学んだら
木村 勤氏(教師 → 医師)
悔いの残らない人生を切り開いた
転身のプロセス
1974年 24歳〜
医大を目指して浪人したが、途中で進路変更して社会福祉を学び、教職に就く。埼玉県内にある小学校3校で17年間勤めた。38歳のとき、医学部受験に再度チャレンジしようと発起し、3年間毎日、欠かさず勉強を続ける。
1991年 41歳〜
宮崎医科大学医学部(当時)に合格し、それを機に小学校を退職。47歳で医師となり、離島(長崎県)で総合診療に携わる。3年目から精神科医に転じ、以降、青森県や高知県などで現場経験を重ねる。
2018年現在 68歳
2012年より、鹿島記念病院(宮城県石巻市)院長として全体を指揮。東日本大震災によって急増した精神的ケアを必要とする人々のために、"与えられた役割"を果たすべく、日々全力を尽くしている。
小学校教師だった木村勤氏が、「医者になりたい」という子どもの頃からの夢を"再燃"させたのは38歳のとき。校長から「教頭にならないか」と勧められたことが導線となった。昇進の話ではあったものの、いわゆる熱血教師だった木村氏にとって、それは望ましい道ではなかった。「管理職と学級担任とでは、転職するくらいの違いがあります。人事管理などがメインとなり、授業や子どもたちと接する時間が減るのは耐えられないと思い、教頭の話は迷わず断りました。ただ一方で、この先定年まで現場で頑張るにしても、年を取った自分が担任になったとき、子どもたちが喜ぶだろうか......と」
かつて10代で臨んだ医学部受験は、合格が叶わなかった。健診に訪れる校医を前にコンプレックスを感じることもあり、医師への憧れを捨てきれなかった木村氏は「教頭試験の準備に割く時間があるのなら、医学部受験の勉強をしよう」と思い立つ。
「仕事があるので急がず、変に気負わなかったのがよかったのでしょう。まずは英語からと、コンパクトな参考書で独習を始めたところ、これが日課となって順調に続いたのです。自分に自信が出て、それから数学や化学など、遠ざかっていた科目を優先的に加えていきました。だんだん学ぶこと自体が楽しくなり、苦にはなりませんでしたね」
むしろ大変だったのは大学選びだ。経済的に国立大学を前提としていたが、多くの大学が社会人経験者の受け入れを好まない実態を知り、情報収集には腐心した。最終的にチャレンジしたのは、当時、社会人経験者が多数在籍していた宮崎医科大学医学部(現宮崎大学医学部)。1991年、合格を果たした木村氏は小学校に辞意を伝え、新たな道を踏み出した。
離島医療から精神科専門へ
"41歳の医学部生"には、時間的にも経済的にも猶予はなかった。
「留年や国家試験に落ちるようなことだけは、あってはならないと。学校を退職する際、別れを惜しみ、泣きながらも『絶対に夢を叶えてね』と送り出してくれた教え子たち、学費を案じて援助してくれた弟のことを思うと、何があっても挫折はできない。文字どおり決死の覚悟でした」
医師になったら僻地医療に携わると決めていた。子どもの頃にシュバイツアーの伝記を読み、その感動が"夢"につながっていたからだ。できることなら海外の医師不足地域に赴任したかったが、研修を終えた段階で49歳、「冷静に考えれば、さすがに厳しい(笑)」。せめて日本でと考え、選んだ勤務地が長崎県にある離島。木村氏はここで医師としてのキャリアをスタートさせた。
「主に内科、小児科を担当していましたが、急患ともなればすべてに対応しなければなりません。緊張の連続だったけれど、さまざまな経験から多くを学ばせてもらいました。そしてたくさんの患者さんを診ているうちに、ストレスや複雑な家庭環境などから病気になる人が意外に多いことを実感したのです。私を信頼して話をしてくださる患者さんが増えるにつれ、精神科に強く関心を持つようになりました」
技術的なことは若い医師のほうが飲み込みが早いが、精神科ばかりは人生経験がプラスに働く。そう確信し、精神科への転科を考えた木村氏は次なる行動を起こす。マンツーマン指導を求めて青森県の民間病院に移り、その後も複数の病院で精神科医として経験を積んでいった。
夢を追い、理想を求め続ける
現在の本拠地は石巻市で、この地には「院長職」を求めてやってきた。背景には、その前に勤務していた個人病院のトップが病に倒れ、それを境に組織が大きく乱れたのを目の当たりにしたという事情がある。この経験から木村氏は、病院全体に責任を持つ立場で仕事をしたいと考えるようになったという。インターネットで募集情報を調べるなか、巡り合ったのが石巻市にある病院だった。「恵愛病院の院長として温かく迎えてもらったのですが......2年後、東日本大震災が発生しました。目の前で患者さんたちを失い、病院も全壊。私自身、途方に暮れましたが、震災後に急増した精神的ケアが必要な人たちと相対していると、『これは必然として与えられた役割』だと、強く感じるようになりました」
現在、同市・鹿島記念病院の院長職にある木村氏は、日々多くの患者と向き合いながら、誰もが安心して訪れることのできる病院づくりに全力を傾けている。社会に求められていることと、自身の役割を常に重ね合わせてきた道の最終地だ。「ここ石巻に骨を埋める覚悟です」という言葉が頼もしい。
「振り返ればさまざまなことがあり、転々ともしてきましたが、夢を追い、理想を求め続けてきて本当によかった。あきらめなかったことで、悔いの残らない人生を得られたと思っています。教師だったら、とうに定年を過ぎた年になりましたが、必要とされる限り、この仕事と役割をまっとうできる喜びを感じています」
Text=内田丘子(TANK) Photo=刑部友康