人事、仏に学ぶ

仕事の場で怒ってはいけないのだろうか

2020年04月10日


w159_hotoke_01.jpg怒りは時に、人の判断を誤らせます。ですから、仕事において怒りを抑えることは重要です。また仏教では、怒り=「瞋恚(しんに)」を苦しみの原因である「三毒」の1つに挙げています。そのため、仏教には怒りを抑えるために実践すべきことの教えがいくつもあります。その1つが「四摂法(ししょうぼう)」(四摂事《ししょうじ》、四恩《しおん》ともいう)です。
四摂法の1つ目である「布施(ふせ)」は、僧侶への謝礼という意味ではありません。本来は持ち物などを他者に分け与えることで、執着心を捨て自由になる訓練です。「シェアする行為」と考えればいいでしょう。2つ目の「愛語(あいご)」は言葉を調えること。慈しみのこもった言葉を意識して使うことで、心を平らかにします。そして3つ目の「利行(りぎょう)」は他者に尽くすこと、4つ目の「同事(どうじ)」は他者と協力することです。
四摂法はもともと、他者を助けるための行動指針です。実践するうちに、他者に対して慈悲深くなります。怒りは己のエゴ(自我)から生まれますが、他者を思いやりエゴを調えることは、怒りを抑え、間違った判断を避けることにつながるのです。
もちろん、この世には「必要な怒り」もあります。それは、利己を捨てて本当に他者や組織、社会全体のことを思ったときに発する「公憤」です。
ただし、公憤を正しく表すためには「智慧(ちえ)」が欠かせません。
仏教では、実社会で生きるスキルを指す「知恵」と、己というフィルターを通さずに世の中をありのままに見る能力である「智慧」とを分けて考えます。公憤のためには智慧を働かせ、ものごとを歪みなく見ることができなければなりません。そして、本物の智慧を身につけるには、かなりの修行が必要とされます。
我々は時に、「私はあなた(あるいは組織)のために怒っている」と言います。でも、智慧が身についていない人が公憤の境地に達するのは難しい。公憤を装っても、自分の都合で「私憤」を発しているだけということがほとんどです。
やはり、基本的には怒りを抑えることに努めましょう。そのほうが相手のためになりますし、より良い組織を作ることに結びつくのです。

Text=白谷輝英 Photo=平山 諭

釈徹宗氏

浄土真宗本願寺派如来寺住職 相愛大学人文学部教授

Shaku Tesshu 龍谷大学大学院博士課程、大阪府立大学大学院博士課程を修了後、大阪府池田市にある如来寺の住職となる。相愛大学人文学部教授や、認知症高齢者向けグループホームの運営を手がけるNPO法人リライフの代表としても活動中。著書に『みんな、忙しすぎませんかね? しんどい時は仏教で考える。』(大和書房/笑い飯・哲夫氏との共著)など多数。2017年には、『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(朝日新聞出版)で第5回河合隼雄学芸賞を受賞した。