コスト削減か利益拡大か。膨らむ労務費を吸収するための経営戦略に注目
人手不足感の強い飲食などの企業は現在、資本代替による省力化や、パートタイマーの業務範囲と責任を拡大する「質的基幹化」、さらに非正社員の正社員化などさまざまな対策を講じている。武蔵大学教授の神林龍氏に、今後労働力不足が進行した時、経営がどのように変わりうるかを聞いた。
神林 龍 氏
東京大学経済学部卒業。同大学院経済学研究科博士課程修了。専門は労働経済学。スタンフォード大学経済学部客員研究員、一橋大学経済研究所教授等を経て現職。
主な著書に『解雇規制の法と経済』(日本評論社、2008年)、『正規の世界・非正規の世界』(慶応義塾大学出版会、2017年)、『雇用社会の法と経済』(共編、有斐閣、2008年)、『日本の外国人労働力』(共著、日本経済新聞社、2009年)等。
賃上げコストをどう吸収 資本代替や事業拡大、さまざまな選択肢
最低賃金(最賃)の引き上げや春季生活闘争(春闘)の賃上げ率が過去30年ぶりに高い水準になるなど、社会的に賃上げの動きが広がっている。なかでも人手不足感の強い飲食や販売・サービスでは、パート・アルバイトの賃金上昇が続いており、各企業は、例えばテーブルオーダーシステムを導入して6人分の仕事を5人で回すなど、対応に追われている。
「賃上げで上昇したコストを吸収するため、企業はどのような戦略を取るのかを考える必要があります」と、神林氏は指摘する。
方向性としては、大きく2つある。1つはコストを削るパターンだ。前述したオーダーシステムのように、資本設備を増強し、労働者との代替を進めて省力化する方法のほか、原材料費など別のコストを削って、労務費の上昇分を吸収するといった方法もある。
もう1つは売り上げのグロスを拡大し、利益を高めることだ。例えば商品ラインナップをリニューアルするなど疑似的にでも製品が変わった状態を作り、製品価格を引き上げて利益率を回復する方法はインフレの前からやられていた。また店内で提供していた食事を通販サイトでも販売したり、M&Aで異業種の企業を買収したりして複数の領域へ事業を広げ、シナジー効果で利益を高める戦略もある。
「今やスーパーマーケット単独で事業が成り立つのは、地方のローカルなスーパーくらいです。業界大手の多くが、独立系コンビニチェーンや弁当店を買収したりエキナカ事業など新規事業に参入したりして利益率を高めています」
「労働者の賃金水準は、原則的に労働を提供するサプライサイドによって決まります。利幅の小さい専門スーパーが地方で生き残れたのも、中小企業の生産性が低迷しているのも、安い労働力が豊富に存在していたためだと考えればすべて整合的に説明できてしまいます」と神林氏は説明する。「一方で、今後賃上げが加速すれば、こうした生産性の低い企業は対策が追い付かずに事業からの撤退を迫られるでしょう」
非正社員の基幹化は1980年代から 昇給制度整え技能形成
人手不足に対応するため、これまでは正社員にアサインされていた業務を非正社員に担ってもらう「質的基幹化」も起きている。この場合、パート・アルバイトもスキルや役割に応じて等級が上がり、それに応じて昇給する評価・等級制度が設けられていることが多い。
非正社員のモチベーションを高め離職を防止するため、ステップアップの仕組みを設けることは遠い昔1980年代から始まっていた。「労働需給にかかわらず、生産性を高め利益拡大につなげるという観点から、非正社員を戦力化する取り組みはずっと継続してきました。ただ企業のストラテジーは一貫して、コストの安い働き手を、雇用形態は変えずに活用する、割のよいやり方にありました」
デフレ経済のもとでは、労働者は額面の賃金が上がれば「収入が上がった」という実感を得られたため、基幹化による賃金上昇はインセンティブとして機能しやすかった。象徴的なのが中古書籍販売などを手掛ける企業が2000年代にパートに仕入れや棚づくり、最終的に店長まで任せる昇進システムを設けてパート・アルバイトの技能形成を進めたことだろう。「最近まで多くの企業が取り組んできた非正社員の基幹化は、この時の状況の延長線上にあったといえます」と、神林氏は指摘する。
「非正社員のまま使い倒す」シナリオが破綻し始めたのが2010年代だ。全社員を正社員化したユニクロを皮切りに、正社員化の動きが広がり始めた。それまでの基幹化で、非正社員と正社員の待遇格差が縮小していたことも要因の1つだが「自営業者が非正規の労働市場へ流れ込む動きが収束に向かい、供給のバッファが失われて労働需給が逼迫してきています。過去と比べて安い労働力を獲得することが難しくなっており、それにともない正社員化のプレッシャーが高まっています」(神林氏)。
賃金水準が上昇すれば、タスク構造にも変化が起きる
質的基幹化や最低賃金の引き上げなどが行われた結果、過去10年で短時間労働者の時給は約2割上昇した。DX(デジタルトランスフォーメーション)の進展にともない、テクノロジーに対応しやすい若年者を優先的に採用する動きも強まり、総務省「労働力調査」によれば、25~34歳の雇用者について、雇用者に占める非正規雇用者の割合は2013年の27.3%から2022年、22.1%へ低下した。労働市場では今後、非正社員から正社員への置き換えが加速するのだろうか。
企業戦略を変えるポイントの1つが、社会保険の適用拡大だ。2022年から101人以上500人以下の企業で、一定の条件を満たすパート・アルバイトを社会保険に加入させることが義務付けられ、適用範囲は今後、順次拡大されることが決まっている。これにともない対象企業の負担する社会保険料は増大することになるし、非正社員にかかるコストが正社員のそれとあまり変わらなくなり、正社員化が加速する可能性もある。
「インフレ対応ではない労務費の上昇は、働いている人の価値が上がることを意味します。このためコスト増に見合うよう、人事管理と一体化して実質的な生産性向上や技能形成に取り組む企業も出てくるでしょう」
また人手不足によってデジタル技術などによる資本代替が進むと、人の担う仕事は細切れになる、という考え方もある。しかし神林氏は「むしろ賃金上昇とともにタスクは総合化され、どんどんマルチタスクになっていく可能性もそれなりにあるのではないでしょうか」と予想する。
例えば飲食店にオーダーシステムが導入されると、店舗アルバイトは注文取りの負担が減る分、従来よりも高度なタスクを担うようになる。すると店長の仕事も、店舗運営だけでなくこれまでは本社が担っていたメニュー開発や仕入れなど、より上のタスクへと広がっていく。
タスクが高度になれば賃金も上がる。この時、企業がグロスを拡大して労務費の上昇分を吸収する戦略を取った場合、働き手のタスクはそれに応じてさらに変わり、大きく職場が変わる可能性がある。
「例えばスーパーが惣菜店や弁当店を買収し事業を拡大したら、スーパーの店長だった人が惣菜店や弁当店の店長も担うなど、タスクはさらに高度に、かつ幅広くなるでしょう。これが賃金上昇にともなってタスクが広がっていく仮説です。一方、タスクが細切れ化していく仮説が正しいとすれば、スーパー店長はスーパー店長のまま労働時間が短くなって、ワークライフバランスが取れるようになります」
本当の人手不足はこれから始まる。賃金高止まり、でも人は来ない
神林氏は労働市場の現状について「本当の人手不足はまだ始まっておらず、今はぎりぎりの状態ではないか」と語る。日本の2022年の労働力人口は6,902万人と、ここ数年過去最高の水準で推移しており、15歳以上65歳未満の労働力人口比率も80.6%と、10年以上上昇し続けている。これを天井と見るか、まだ余力があると見るか。
リクルートワークス研究所の調査分析の結果、パート・アルバイトの賃金を引き上げると、応募者が増えることがわかっている。つまり現状では、労働を供給する側にはまだ余裕(弾力性)があり、賃金を上げれば労働参加も広がる余地が残されていることになる。
「最終的にもし労働力人口比率が天井に達して賃金弾力性が失われれば、理論上は企業がいくら高い賃金を出しても労働者は集まりません。企業全体の賃金が同じ水準で高止まりするでしょう。ただ、その状態に至るまでには人材の取り合いとなる局面が必ずあるはずです。企業にまだ余剰利益が存在していれば、そういった企業がどんどん高い賃金を提示するようになり、人材の奪い合いが起きます。そして、企業の余剰がなくなれば賃金上昇が不可能になりますから、その時点で賃金は高止まりするわけです。これが賃金上昇のメカニズムです」
今後、子育て支援などによって女性・高齢者の労働参入がさらに進み、労働力人口比率が北欧並みの80%前半まで伸びれば、あと3~4%分、200万人程度労働者が増えることが期待できる。しかし80%程度で止まるなら、近い将来、労働供給は頭打ちとなり「本当の人手不足」時代が到来することになる。
「今のところは、自営業セクターが下げ止まり余力はないように見えますし、まだ労働参入の余地は残され、企業にも賃上げ余力があるようにも思われます。このあと、遅かれ早かれ労働市場の弾力性が落ちてくると思いますが、その時、企業各社がコストセービングとプロフィットの拡大、どちらの戦略を取るかが日本の生産性のカギになると思います。ありうるのは労働のコストが上がる分、資本装備率を上昇させるなどしてコストセービングを行うというシナリオです。その場合は労働生産性が上がりますが、TFP(全要素生産性)は上がっていないということになりえます。それともTFPが上がるような事態が発生するのか。そういったところが分かれ目になるということです」