「賃下げできないから解雇規制緩和を」の正体 中村天江

2019年04月03日

賃上げ政策に対する企業の主張

最低賃金の引き上げや同一労働同一賃金の推進という、賃金の引き上げ政策に対し、「賃金の引き上げにより企業の競争力は損なわれる。企業の競争力を高めるためには解雇規制の緩和を」という主張を聞くことがある。

企業の競争力向上が重要なことには強く賛同するが、この意見を聞くたびに違和感をもつ。なぜなら、賃金の上げ下げよりも、雇用継続の有無の方が、はるかに個人の生活に与える影響が大きいからだ。

解雇によって収入が100から0になる選択肢と、収入が90や80に減る選択肢であれば、後者を選ぶ人がほとんどにもかかわらず、企業から、両者を天秤にかける発言がでてくるのは、なぜなのだろうか?

賃金を下げられないから、賃金を上げられない

賃金には「下方硬直性」が存在するため、経営が賃上げを敬遠する「上方硬直性」があることがわかっている。人は手にしたものを失う落胆の方が、新たに何かを得る喜びよりも大きいという認知特性をもっている。企業が賃金を上げることによって上昇する従業員の満足度やモチベーションよりも、賃金を下げることに対する反発やモチベーションの低下の方が大きいため、企業は賃金をなかなか上げることができない(山本・黒田 2017)(※1)。

冒頭の発言は、経営環境に応じて柔軟に賃金を上げ下げする負担が非常に重いため(※2)、それでも賃金を上げろというなら、雇用調整の柔軟性を認めてほしいという意図からなされている。

解雇は現行法でも認められている

世間一般で解雇規制緩和が話題になる時、見落とされがちなのは、今も一定の条件を満たせば、企業は従業員を解雇できるということである。長期にわたって向上の見込みがない著しい成績不良など、就業規則に記載された理由にもとづく普通解雇や、「人員整理の必要性」「解雇回避努力義務の履行」「被解雇選定の合理性」「手続きの妥当性」の4要件にもとづく整理解雇は可能で、5年間に整理解雇もしくは普通解雇を行ったことがある企業は約2割ある(※3)。

このように法律上は一定条件下で解雇が認められているが、企業は実際には解雇権を行使できない(しにくい)と感じている。企業が解雇権を行使できない理由は、①条件が厳しく運用の負担が重たい ②解雇権を行使すると他の問題が発生する(社会からの批判など) ③解雇権を行使した場合に裁判でそれが認められない可能性がある(予見可能性が低い) などである(※4)。

契約関係をあやふやにすると、「過保護」に

賃金を変動させることも、従業員を解雇することも、理屈上はできるにもかかわらず企業はできないと感じている。それが解雇規制の緩和要望につながるのだが、ここに論理の飛躍がある。

有期雇用従業員に対する「無期雇用転換ルール」を導入した、2012年の労働契約法改正時に企業にヒアリングに伺った際、地域限定や職種限定の従業員の仕事がなくなっても、雇用を維持するために地域や職種の枠を超えて受け入れ先を探し、従業員の希望とすりあわせる努力をすると明言した企業がいくつもあった。実際、限定正社員の解雇に対して、裁判所は、契約書の記載内容より就業の実態を重視し、いわゆる解雇回避努力義務を求める傾向がある(労働政策研究・研修機構 2014)(※5)。

賃金にしても、雇用維持にしても、従業員と経営側の権利と義務があやふやだと、コンプライアンスやレピュテーションを重視する企業であるほど、法律や就業規則の規定以上に従業員を保護せざるをえない。それは、権利義務関係が曖昧なことにより、従業員や、もっといえば社会に対して、付加的な期待を発生させてしまうからである。(逆に、権利義務関係が曖昧なことにつけこみ、違法なマネジメントを行うのがブラック企業である。)

6割の雇用者が賃金制度について知らない 

企業は従業員を雇い入れる際、賃金や雇用期間などの労働条件について明示することが義務付けられている。2020年からは、同一労働同一賃金の法施行により、賃金制度に関する企業の説明義務も強化される。ところが現状、雇用者の約6割が、「入社時に賃金制度について説明を受けていない」もしくは「受けたことを覚えていない」という(※6)。

賃金制度について、従業員は十分に説明を受けていない。その状況で、企業が経営環境に応じて賃金を下げようとすれば、当然、強い反発と不満が起こる。賃金を下げることが難しいのも、雇用契約の書面上の条件で解雇が難しいのも、情報が十分に伝えられないまま権利義務関係があやふやになっているところに根本的な原因がある。

まず企業がすべきことは、雇用契約の契約条件や権利義務関係を明確に伝える。就業実態をそれと揃える。次に労使自治のもと、賃金を弾力的に運用する。少なくとも賃上げとの関連でいえば、解雇の話はその次にしか出てこない。権利義務に関するコミュニケーションの欠如と、良くも悪くもそこから外れた就業実態が、企業の行動を縛っている面がある。

雇用契約の根幹を条件変更しやすいかどうかは、「契約」に対する姿勢しだいである。企業は従業員との曖昧で暖かな関係を重視するのか、明確でドライな関係を望むのか。企業は従業員との関係をあらためて考える時期に来ている。

(※1)山本勲・黒田祥子(2017)「給与の下方硬直性がもたらす上方硬直性」玄田有史編『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』慶應義塾出版会
(※2)下方硬直性のもとで賃金を上げるには、成果給や賞与といった、従業員の貢献や業績によって変動する部分で報いることになる。
(※3)労働政策研究・研修機構(2013)「従業員の採用と退職に関する実態調査」
(※4)解雇のあり方に関しては、厚生労働省「透明かつ公正な労働紛争解決システム等の在り方に関する検討会」、「解雇無効時の金銭救済制度に係る法技術的論点に関する検討会」などで検討が続いている。
(※5)労働政策研究・研修機構(2014)「多様な正社員に関する解雇判例の分析」
(※6)リクルートワークス研究所(2018)「全国就業実態パネル調査2018」

中村天江

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