09. 岡山湯郷Belle所属 サッカー日本女子代表(なでしこジャパン)キャプテン 宮間あや氏

2014年06月05日

一人目の師、父の作ったチームで始めたサッカー
仲間のためにプレーすることを教えられた

宮間氏は、小学1年の時、父親の作ったサッカーチームに入った。父親には中学生まで指導を受けている。女子のサッカーがめずらしかった時代、高学年になると、宮間氏は男子に交じってプレーするようになった。小学6年の時には中学1年の男子のチームで試合に出場し、決勝ゴールを決めるなどの活躍を果たしていた。その頃監督である父親から「自分以外の仲間のためにプレーしろ」と言われていたことが、その後のプレーの基礎になっている「父にとってはみんなに言っている言葉」(宮間氏)だったが、そこからずっとチーム一丸となって戦うことにこだわり、誰よりも仲間を大切にする宮間氏の「キャプテンシー」が育っていった。

2人目の師、本田美登里氏の導きと、
湯郷の町の人たちの応援に力をもらう

小学5年の時に応募した「国際社会で活躍できる日本人の育成」の親善大使に選ばれ、アメリカのサンディエゴでサッカーの試合を経験する。そこに派遣されていたのが元日本女子代表の本田氏だった。自分たちだけでホテルの部屋を与えられていた子どもたちは、つい羽目を外しがちになる。本田氏は子どもでも容赦せず、とりわけ時間厳守について厳しく指導した。「サッカーのプレーの中身というより、選手としての基本的な生活態度について厳しく教わりました」(宮間氏)。それが宮間氏にとって最もつきあいの長い監督になる人との、最初の出会いだった。その後、宮間氏は高校2年まで所属していたチームを事情により退団した。退団後、通っていた千葉県立幕張総合高校の男子サッカー部で練習していたが、試合には出られない。公式試合に出なければ、日本女子代表への招集も逃してしまうというジレンマに陥っていたときに、本田氏が率いていた岡山湯郷Belleに「籍を置いていいよ」(本田氏)と誘われて、入団した。幕張総合高校は単位制で、比較的時間が自由になったため、長期休暇など時間を調整して千葉から岡山に通い、プレーを続けるができた。「思い切りサッカーをできるのがうれしくて」(宮間氏)、一人見知らぬ町へ向かうことになんの不安も感じなかった。岡山湯郷Belleはその頃発足したばかりの新しいチームだったが、町の人たちの応援は最初からずっと温かかった。歩いていると「サッカーやっている子だよね、頑張りなさい」とか「今週の試合、よかったね」などと声をかけられることもたびたびだった。声をかけてくれるのみならず、ボランティアとして試合の準備なども手伝ってくれた。現在も変わらず「温泉街のみんなでチームを育ててくれている」(宮間氏)町であることも、サッカーに集中したい宮間氏にとって、ありがたいことだった。

実力を開花させたアメリカリーグへの移籍
アメリカの女子サッカー文化を体感する

高校卒業後の2009年、在籍していた岡山湯郷Belleから、アメリカ女子プロサッカー(WPS)のロサンゼルス・ソルに移籍する。シーズン当初からその実力を発揮して、チームのレギュラーシーズン1位獲得に大いに貢献。WPSオールスターズに選出されるなどの栄誉も得た。WPSでの試合出場のなかで多くの世界的プレーヤーとの親交を深め、アメリカにおける女子サッカーの文化を体感した。日本に比べてアメリカでは女子サッカーの裾野が圧倒的に広く、「町でボールを蹴っている女の子がたくさんいる」(宮間氏)。男の子は野球やバスケットボールなどにも目が向くが、サッカーはむしろ女の子のほうが積極的に取り組んでいた。一方、その頃の日本はといえば、「サッカーがしたい」と女の子が言っても「女の子はダメ」と言われてしまう状況にあった。日本の女子サッカーをもっと発展させるためには、裾野を広げていかなければならない、そんなこともアメリカ生活で考えるようになっていった。

自分が思ったら行動すること
自分で考えて、結果は自分で引き受ける

2010年9月、再び岡山湯郷Belleに完全移籍した宮間氏。2011年のワールドカップ優勝における活躍以降、その実力とスポーツマンシップが数々のメディアを賑わせることになった。日本中が「なでしこフィーバー」に沸き、チームも宮間氏自身も数々の賞を受け、話題をさらった。しかし、「世界一をとったときは怖かった。まだ実力が備わっていないのに、とんでもないことをしてしまった」と感じていた。「世界からさほど強くマークされていない状況だから勝てたが、次はそうはいかない、このあとが大変だ」(宮間氏)ということもわかっていた。ただ彼女は、そのさなかも自身が取り上げられた番組、ニュース、記事などの一切を見ていない。他人が何を言うか、周りがどのように判断するかは考えない。「そこには自分の仕事はない」(宮間氏)と考えているからだ。彼女は常に自分が何をすべきなのか自分で考え、行動し、その結果も自分で引き受けると決めている。地元への恩返しとしてサッカーで結果を出すこと、精一杯頑張っている姿を人に見せること、特に子どもたちに見せていくことが自分のなすべきことだと思っているのだ。2012年からなでしこジャパンのキャプテンとなったが、これまでもそうしてきたように、仲間の大切さを強く感じながらプレーでベストを尽くすことしか考えていない。チームワークを強化するために「お互いがお互いのことをすべて受け入れること」が大事だと考えている宮間氏は、人としての好き嫌いではなく、互いのプレーを受け入れるマインドがチームには必要だと思っている。プレー中は常に真摯に、必要なら怒鳴ることもするし、熱の入らないプレーは許さない。プレーを離れると楽しいことが大好きでいたずら好きな彼女は、常にチームの中心となって明るく前を向いている。

明日が来ることは絶対じゃない、と思う
だからこそ、一番大切なものに集中する

ワールドカップやオリンピックで素晴らしい結果を残したあとも、宮間氏が立ち止まることがなかったのは、目標を持たないからだという。オリンピックで金メダルを取った選手の燃え尽き症候群の話があるが、彼女の場合、こうなりたい、こんな夢をかなえたい、という目標は持たない。しかし「テーマ」は考えている。その日の練習、その日の試合に、今日はどんなテーマで取り組むかをきちんと考えて実践している。2011年3月11日の東日本大震災の時、津波被害の恐れがあった千葉県にいる家族と連絡が取れなかった体験は、宮間氏に大きな影響を与えた。「明日が来るかどうかは、絶対じゃない」(宮間氏)と強く思った。そして、自分にとって何が一番大切なのかを考え、大切なことにのみ集中しようと考えるようになった。家族や人とのつながりはもちろんだが、自分はとにかくサッカーが大切だと改めて思うようになった。今は、サッカーをやりたい女の子には「なでしこがあるよ」と言えるようになったが、女子サッカー文化をもっと広めたいし、できる限り次世代の子たちとプレーし続けたい。先輩たちが築いてくれた仲間を大切にするサッカーの文化を、自分も次世代に伝えたい、そのためには一試合も手を抜かずにプレーする自分の姿を見せていくしかない。そんなふうに考える宮間氏が、成長を止めることはないだろう。

(TEXT/柴田 朋子 Photo/和久 六蔵)