08. 放課後NPOアフタースクール 副代表理事 織畑研氏
大学時代に取り組んだ野球部のボランティアコーチ
教えることの難しさを知った
壮絶な中学受験を経験し、その弊害について考え続けてきた織畑氏は、教育にずっと興味を抱いていた。大学1年の時に、母校である慶應義塾中等部の野球部コーチをやり始めたのも、そんな思いがあったからだ。そこで、大学の4年先輩である平岩国泰氏と出会った。一緒に活動するなかでコーチ論を戦わせるうちに、目指す方向に似たものを感じるようになった。「教えないことが教えることにつながる。でもそういう教育って受けてないなあ」(織畑氏)と語り合ったことが織畑氏の活動の原点となった。この頃、教師を目指していた織畑氏だが、コーチを通じて子どもたちに教えることの難しさを痛感していた。大学を出てすぐ教師になるのは違うかもしれない。なんとなくそう思い、一般企業への就職を選ぶことにした。
夢はオープンにしながらも、
富士通でビジネスの基礎を徹底的に学んだ4年間
織畑氏が就職活動した時期は、まさに就職氷河期。最初は教育系のベンチャー企業にいくつか内定をもらっていたが、父親の大反対にあい、「3年だけ」という約束で大手企業に方向転換した。「ものの流れが知りたかった」(織畑氏)のでメーカーがいいと考え、その時点で採用がまだ終わっていなかった富士通を受験した。面接の段階から「いずれは教育の領域に進みたい」と正直に伝えていた。2000年4月に入社、配属された公共事業部では宇宙開発に関わり、JAXAなどを担当することになった。熱心に仕事をするなかでいくつもの億単位のプロジェクトに関わり、仕事人として鍛えられた。上司の白数利和氏は織畑氏の夢のよき理解者であると同時に、1年目からどんどん任せてくれる上司であり、自分で考えて提案することをいつも求めた。富士通で働いた4年間で、バランス感覚、提案の仕方、早いレスポンスの大切さ、お客様との関係構築など、ビジネスマンとしての基礎をすべて学んだ。「周囲には優秀な人が多く、この時代に教えられたことが今の力になっています」(織畑氏)。気がつけば親に約束していた3年は過ぎていたが、充実した4年間で得られたものは大きかった。
冷静な戦略を持って、次の一歩に
自分がやりたいのは塾じゃない、と気づいた
ビジネスの基本を習得すると、予定通り教育の分野を経験しようと考えた織畑氏。求人サイトに登録すると、仕事はすぐに見つかった。当時「マネーの虎」という一般人の起業を応援する番組に社長が出演して話題になっていた、モノリスという教育ベンチャーだ。織畑氏は学習塾の広報活動に携わることとなり、自身が担当する塾に「これからは体験型のコンテンツが求められます」(織畑氏)と提案して、自分のやりたいことを間接的に実践してみることもした。その仕事を通じて出会ったのが、教育支援協会代表理事の吉田博彦氏だ。吉田氏の運営する地域の教育事業や「自然体験型プログラム」をPRする仕事をする中で、「放課後 というキーワードがどんどん膨らんでいった。モノリスで働き始めて3カ月が経った頃、「自分の考える課題解決の方法は、塾じゃないな」(織畑氏)と思い始めて、次の打ち手を考えていたとき、一本の電話がかかった。大学時代に野球部のコーチで一緒だった平岩氏からだった。久しぶりに再会すると、「放課後対策」についてのアメリカの事例を見せられ、「放課後事業」を共にやらないかと誘われた。自分も「放課後」が気になっていたことから「これだと思い」(織畑氏)、活動をスタートさせた。2005年に任意団体「放課後NPOアフタースクール」を立ち上げ、2人でさまざまな放課後事業に奔走し始めた。
今がその時と、極貧覚悟の勝負に
ギリギリのタイミングでまいた種が芽を出した
2人は仕事の合間を縫って、世田谷区の「地域コミュニティ活性化支援事業」に手を挙げ、放課後の学校で地域の大人を「市民先生 として招き、子どもたちに体験事業をさせるプログラムを開始した。その過程で強力な応援者とも出会った。港区赤坂をはじめ都内で日本料理屋数店を営む、四分一勝氏だ。四分一氏は教育に関してもさまざまな活動実績があって、2人の進める事業の方向性に共感し、自ら社員を連れて「市民先生」を買って出てくれた。また、店のスペースを打ち合わせ用に貸してくれ、相談に乗り、叱咤激励してくれた。そうして少しずつ放課後事業を進めていたが、2人とも仕事と両立しながらの日々で、どうにも時間が足りなくなってきた。織畑氏はこの事業に本腰を入れたい気持ちが募り、「とにかく3年、それでだめならあきらめる」(織畑氏)と平岩氏に宣言し、2007年3月にモノリスを退職、放課後事業に専念した。吉田氏の応援のもと、教育支援協会に籍を置かせてもらい、そこでの活動で若干の収入を確保しながら、放課後NPOアフタースクールのNPO法人化の準備、活動の拡大、地域のネットワークづくり、PRなどに取り組んだ。もちろん勢いだけで独立したわけではない。彼は就職した時から、この日のために出来る限りの貯金をしてきた。その資金がつきるまで頑張ってみようと覚悟を決めていた。これまでの半分以下の家賃のアパートに引っ越し、節約貧乏生活をしながらも、平岩氏とともに次々と「放課後プログラム」を実現していった。その過程では企業やデパートと連携したり、メディアに取り上げられたりして放課後NPOアフタースクールの名前は徐々に知れ渡ってきてはいた。しかし、収入はまったく安定しないまま2年が過ぎ、「通帳の残高が一桁になった」(織畑氏)ときに、東京都港区の「赤坂・青山子ども中高生共育事業」の公募に手を挙げた。企画内容で競う形式で競合となった相手は「実績も規模も格段に違う相手」(織畑氏)だったが、「これまで、地域で地道に活動をして、種をまいてきたことが功を奏して」(織畑氏)、3カ年事業の受託を勝ち取ることができた。
最高の理解者とタッグを組んだ今、
放課後から日本の教育を変えていきたい
独立してからの2年間にやってきたことは、「放課後事業のプログラム屋さん」(織畑氏)だったが、本当は、学校に入り込んでの本格的な放課後事業を手掛けたいとずっと考えていた。収入面では港区の事業受託で一息つけたとはいうものの、期限は3カ年。その間に確固とした基盤を作りたいという思いで次の活動の場を模索していた時、「キャリアマザーを支援したいという学校がある」という話が飛び込んできた。さっそく会いに行ったのが、東京都中野区にある新渡戸文化学園の理事長、豊川圭一氏だ。豊川氏は学園の立て直しに取り組むなかで、子どもたちに質が高く安全な放課後を提供することで、保護者が安心できる子育て環境を整えた学校にすることを目指していた。豊川氏は、織畑氏が会社を辞めて取り組んでいることを知ると「本気なのだと理解してくれて」(織畑氏)、夢の実現を後押ししてくれることになった。それが「新渡戸文化アフタースクール」の事業の始まりである。2010年に受託して準備を進め、2011年に開校した。そのタイミングで代表の平岩氏も会社を辞めて合流、新卒の社員も1人採用している。新渡戸学園ではこの事業の成果が早くも出て、受験者が倍近くになっている。私立では珍しく1年生の保護者の7割が共働きだという。共働きの親たちが、子どもに安心できて質の高い放課後を求めていたことの表れといえよう。これを契機として、毎年1校私立小学校にアフタースクールを開校している。教育で社会貢献したいという若者たちがどんどん集まってきて、社員も7人に増えた。「市民先生 として活動に協力してくれる人は500人を超えた。それでもやっと当初描いていた夢の一歩を踏み出したにすぎないと考える織畑氏は、ここから公立小学校でアフタースクールを展開したいという目標に向かっている。「そろそろ放課後プログラムの成果をなんらかの形で測りたい」(織畑氏)。教育の理想を熱く語りながら、常に冷静に次の戦略を準備している織畑氏の活動は、きっと日本の子どもたちに夢や希望を与える力となっていくだろう。
(TEXT/柴田 朋子)