成功の本質
第103回 バイオIOS(アイオーエス)/花王
「中興の祖」の言葉が開発を後押ししたサステナブルな洗浄基剤
松坂桃李、菅田将暉、賀来賢人など、若手人気俳優が5人も登場する豪華なキャスティングのテレビCMで話題を呼んだ花王の衣料用濃縮液体洗剤「アタックZERO(ゼロ)」。「アタック液体史上最高の洗浄力」を謳い、2019年4月に発売されると、日経MJヒット商品番付(上半期)で西前頭筆頭にランクされ、幸先よいスタートを切った。
高い洗浄力を実現したのは、花王が10年以上かけて、世界初の技術により開発した「花王史上最高」の洗浄基剤「バイオIOS」だ。基剤とは洗剤の主成分の界面活性剤のことで、次のような仕組みで洗浄効果をもたらす。
界面活性剤の分子は、油になじみやすい親油基の端に、水になじみやすい親水基がついたマッチ棒のような形をしている。洗濯の際、衣類についた皮脂などの油性の汚れにマッチ棒の軸にあたる親油基が無数に吸着し、その表面を取り囲む。すると、反対側(水の側)に並ぶ親水基が水のほうへ引き寄せられるので、汚れが繊維から離れる。この現象が汚れのいたるところで起きることにより、衣類が洗浄される。
サステナブルな界面活性剤
洗剤に使われる界面活性剤の原料は、東南アジアで栽培されるココヤシやアブラヤシの種子から採取する天然油脂だ。バイオIOSの開発は、その原料が不足する危機感から始まった。研究開発は基礎研究を行うマテリアルサイエンス研究所の開発担当と応用担当の両チームが連携を組んだ。応用担当の中心を担った坂井隆也が話す。
「天然油脂の分子構造は炭素が鎖状に並んだ形です。界面活性剤の原料には炭素の数が12から14の油脂が使われる。その油脂は世界の全油脂生産量のうち、わずか5%ほどしかなく、それを各メーカーが競って入手しているのです。世界の人口は2050年には現在の1.3倍、GDPは3.2倍になると予測されていて、世界的に生活水準が向上すると洗剤の需要は激増する。ところが、森林伐採が問題視され、ヤシの栽培面積の拡大には限界がある。需給バランスが崩れて洗剤の値段が高騰し、日常的に洗濯を行うことが困難になる事態が危惧されているのです」
その一方で、世界で生産される天然油脂のなかで生産量が1位で、しかも、使われずに余剰になっている油脂もあった。坂井が続ける。
「それはアブラヤシの果肉から採れる炭素数が16から18のパーム油です。融点の低い液体部分と高い固体部分があり、液体部分は食油に使いますが、固体部分は用途が限られ、界面活性剤にも不向きとされてきました。これを有効活用し、界面活性剤の原料にすることができれば資源問題は解決し、サステナブル(持続可能)な界面活性剤をつくれる。それに挑戦することにしたのです」
2008年、研究開発がスタートする。まず、パーム油の固体部分から、親油基のもとになるオレフィンという液体の物質をつくる。それまで、炭素数16から18の天然油脂からオレフィンをつくることは不可能とされていたが、開発チームは2年がかりで、これを可能にした。
次は、オレフィンにスルフォン基と呼ばれる親水基を結合させる。ただ、界面活性剤は親油基の炭素数が多く鎖が長くなるほど親水性が低くなる。そのため、炭素数が16から18の新開発のオレフィンの端の部分に親水基を結合させた界面活性剤は水に溶けにくかった。そこで、開発担当チームは親水基を親油基の中間部分に結合させ、親油基が枝分かれした形の親水性の高い分子構造をつくり上げた。これが、IOS(インターナル・オレフィン・スルフォネイト)だ(上図)。天然油脂を原料とするバイオIOSの合成に成功したのは世界で初めてだった。
ところが、ここで壁に突き当たる。開発担当チームで中心的な役割を務めた堀寛が話す。
「バイオIOSの開発は当初、炭素数16から18の油脂の有効利用がテーマで、界面活性剤としてどれほどの機能があるか予想できませんでした。そのため、衣料用洗剤というゴールも決まっておらず、とりあえず、機能を探りながら、いろいろな製品に使われている界面活性剤のどれかと置き換えができないかと考えていました。ところが、肝心の機能がなかなか見えなかったのです」
この壁を突破したのが坂井だった。坂井の応用担当チームは研究所と商品開発部門との橋渡しをする役割を担っていた。1992年の入社以来、界面活性剤の研究を続けてきた坂井は、開発担当チームと組んで、バイオIOSの計測データを調べ始めた。
親水性と親油性を両立
社内では、バイオIOSの研究開発に対して逆風が吹き始めていた。通常は商品開発部門から研究所に、「こんな素材をつくれないか」と依頼されるが、バイオIOSは研究所から「この素材を使ってはどうか」と投げかける形で、花王では20年振りのことだった。競合各社と機能性を競っているなかで、「サステナブルな界面活性剤」を打ち出しても顧客への訴求力は弱い。社内では否定的な反応が多く、開発中止を求める声もあった。
坂井の背中を押したのは、「中興の祖」と呼ばれた元社長、丸田芳郎の言葉だった。1971年から20年間、社長を務めた丸田は、その経営手腕で花王を世界的企業にまで押し上げた。坂井の入社時には会長職に就いていた。
「科学的なデータをもとに正しいとわかっていることで戦え」。それが丸田の口癖だった。一度、研究開発をやると決めた以上は正しいとわかるまでやり抜く。原点に戻り、データを地道にとり、調べ続けた結果、バイオIOSにはこれまでにはない機能があることを発見する。2015年のことだ。坂井が話す。
「従来、界面活性剤は炭素の鎖が長いほど、親油性が高まり、親水性は低くなるというトレードオフの関係にありました。バイオIOSは、親油基の中間部分に親水基を結合し、長い鎖を2つの部分に分けたので水に溶けやすくなったものの、親油性については未解明でした。それがデータをとっているうちに、分子構造は変わっても油にもなじみやすい機能は変わらないことがわかった。つまり、親水性と親油性の両立という、既存の界面活性剤では不可能だったことを実現できることが判明したのです。しかも油との親和性が高いので、少量で界面活性能を発揮できる。ならば、バイオIOSの価値を最大限活かせるような新しい衣料用洗剤をゼロからつくれるのではないか、と可能性が見えてきたのです」
花王流マトリックス運営
この発見に社外から追い風が吹く。同じ2015年、世界最大のトイレタリーメーカーであるプロクター・アンド・ギャンブル(P&G)が、衣料用洗剤の界面活性剤をサステナブルなものに変える必要性を提言したのだ。P&Gは界面活性剤の基礎研究をやめており、自社ではできない。
「ならば、花王が世界に先駆けてやるべきではないか」。
坂井はP&Gの提言を援用しながら、バイオIOSを使った新しい衣料用洗剤の商品開発を求めるメッセージを社内に発信し続けた。次第に賛同の声が広まり、最後は経営トップが決断。これを機に潮目が変わり、商品開発部門が動き始める。
注目すべきは、商品開発がスタートする以前から、既に量産化のための技術開発も並行して進められていたことだ。着手はバイオIOSの用途がまだ不明確だった2012年。堀とコンビを組んで技術開発を担当した加工・プロセス開発研究所の主任研究員、藤岡徳が話す。
「花王にはマトリックス運営といって、1つの商品や技術をつくり出すのに異なる研究所が組織の違いを超えて協働できる仕組みがあり、われわれの技術開発もその典型でした。2012年当時は、バイオIOSの開発がどこに着地できるかわかりませんでした。でも、わかるのを待ってから量産技術の開発を始めたのでは間に合わなくなるかもしれない。炭素数12から14の油脂原料の不足が予想されるなかで、炭素数16から18の余剰の油脂原料を活用する。その可能性を共有できたことで、着地点が見えていなくても、一緒に走り出すことができたのです」
バイオIOSの量産化のための技術開発は「格段に難しかった」という。液体のオレフィンにスルフォン基を結合させるには、気体と反応させなければならない。実験室ではうまくいっても、生産プラントの実機で実験すると固まってしまう。一晩かけて準備して実験をしても、始めてすぐに失敗と判明したり、成功したと思っても品質評価で全滅したりすることもたびたびあった。
次はグローバル展開
2人の奮闘が実を結んだのは2018年11月。花王が自社の注力する研究領域における新技術を発表する「技術イノベーション説明会」を実施した際、人工皮膚などとともにバイオIOSも紹介されたが、量産技術の目処が立ったのは実にその5日前だった。藤岡が語る。
「失敗しては仮説を立て、また失敗する、を繰り返す。最後に仮説が当たった。本当に追いつめられました」
実験に立ち会い続けた堀もこう話す。
「量産化ができないと、新しい洗剤も発売できない。気が気ではありませんでした」
翌2019年1月、アタックZEROの新製品発表会には澤田道隆社長自らが登壇。「究極の洗浄を提案する」「不可能を可能にするイノベーション」と自信をみなぎらせた。それは、4月から12月までの9カ月の売上目標300億円という、販売を終える既存の「アタックNeo(ネオ)」の1.5倍を目指す強気の計画にも表れた。
日本ではここに来て、国連サミットで採択されたSDGs(持続可能な開発目標)ににわかに注目が集まっている。坂井が語る。
「開発を始めたころは、サステナブルな界面活性剤が求められるといっても、誰も関心を示しませんでした。それでも、『きれいな生活をお届けします』とメーカーとして標榜している責任上、洗剤の値段が何倍にも高騰する事態は回避しなければならない。だからしつこく開発を続けていたら世の中が変わり、そのタイミングで商品を完成させることができた。途中で立ち止まっていたら、この流れをつかむことはできなかったでしょう」
藤岡と堀も、「量産化の技術開発を並行して進めていなかったら完成はもっと先になった」(藤岡)、「その意味で、マトリックス運営を行い、原料から最終商品までつくる技術を持つ花王だからできた」(堀)と話す。
バイオIOSは硬度の高い水や低温の水でも使えるため、硬水の地域が大半を占めるヨーロッパや寒冷地にも適している。坂井らが目指すのは、バイオIOSを世界の洗剤メーカーで採用してもらうグローバル展開だ。
「資源問題を解決するには全世界で使ってもらわなければなりません。将来、花王があのときこの界面活性剤を開発してくれたから、今もこの値段で洗剤が買えるんだと言ってもらえるようにしたい。ここからまた新たなスタートです」(坂井) (文中敬称略)
Text=勝見明
不確実性・不透明性の高い状況では 変化に対応しにくい分析的戦略より物語り的戦略が求められる
一橋大学名誉教授
自分たちがつくり出した新しい界面活性剤の本質的な価値を追究する。困難がともなったバイオIOSの研究開発において、花王ならではの特質が見えるのは、中興の祖である丸田芳郎氏の言葉が研究者の行動を後押ししたことだ。私は以前、ご本人にお会いしたことがあるが、丸田氏は化学者であると同時に、「消費者への奉仕」「人間平等」「英知の結集」を唱えたように、哲学者の顔も併せ持っていた。
坂井氏が壁に突き当たったとき、丸田氏の言葉が「一度やると決めた以上は原点に戻って正しいとわかるまでやる」という行動規範となった。坂井氏はまた、「よきモノづくりを通して人々の豊かな生活文化の実現に貢献する」という花王の創業の精神を常に意識したという。経営理念や偉大な経営者の語録が社員のなかに行動規範として埋め込まれている企業は、困難を克服し、不可能をも可能にし得ることを花王は示している。
バイオIOSの研究開発を戦略の視点から見てみよう。先が見えないなかを突き進んでいくプロセスはきわめて物語的だ。主人公が未知の世界へと旅立ち、試練を乗り越えながら目的を達成し、帰還するという英雄物語そのものだ。
物語にはプロット(筋書き)がある。バイオIOSの研究開発では、用途が限られた余剰の資源から界面活性剤をつくり、資源不足問題に解決の道を開くというのが筋書きだ。物語にはプロットを実現するため、登場人物がどう演じるかというスクリプト(台本)が必要になる。企業における物語の場合、まさに行動規範がスクリプトになる。
プロットとスクリプトにより、直面する課題を解決し、成功へと至る。これを「物語り的戦略」と呼ぶ。不確実性が高いなかでプロジェクトを推進するには、市場分析などにもとづく分析的戦略では限界があり、物語り的戦略がはるかに有効だ(物語り的戦略は固定的でなく流動的であるため「物語る」という動詞をイメージできるように「物語り」と表記する)。
ところで、物語では、しばしば旅の途中で出会う同伴者たちの力を借りる。バイオIOSの研究開発でも、早期から並行して量産化の技術開発を進めた藤岡氏の尽力はきわめて大きい。マトリックス運営により、境界を越えてスクラムを組むことができる。同伴者との出会いを組織的な仕組みとして可能にしているところにも、花王ならではの特質を見ることができるだろう。
野中郁次郎氏
一橋大学名誉教授
Nonaka Ikujiro 1935年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。カリフォルニア大学経営大学院博士課程修了。知識創造理論の提唱者でありナレッジマネジメントの世界的権威。2008年米経済紙による「最も影響力のあるビジネス思想家トップ20」にアジアから唯一選出された。『失敗の本質』『知識創造企業』など著書多数。