若者の時代

村岡桃佳氏(チェアスキー選手)

スポーツが好きな1人の障がい者としてずっとこの道を歩んでいきたい

2018年08月10日

Muraoka Momoka 1997年、埼玉県生まれ。4歳のときに横断性脊髄炎により下半身が麻痺。以来、車椅子の生活に。小学生の頃から車椅子によるさまざまなスポーツ競技を経験し、中学から本格的にアルペンスキーに取り組む。高校2年のときに初めてソチ冬季パラリンピックに出場。2018年3月の平昌冬季パラリンピックでは大回転(座位)の金メダルをはじめとする出場5種目すべてでメダルを獲得。現在、早稲田大学スポーツ科学部4年生。

2018年3月に開催された平昌冬季パラリンピックで活躍したアルペンスキーの村岡桃佳選手。金・銀・銅合わせて5つのメダルを獲得した快挙とともに、ダイナミックな滑りにも大きな注目が集まった。4歳で横断性脊髄炎という病気のために車椅子生活となった彼女がメダリストになった、その強さの源泉に迫った。

聞き手=石原直子(本誌編集長)

平昌で獲得した全メダル。出場種目は滑降順に、アルペンスキー女子座位の「滑降」銀メダル、「スーパー大回転」銅メダル、「スーパー複合」銅メダル、「大回転」金メダル、「回転」銀メダル。日本人選手が1大会で獲得したメダルの数としては冬季史上最多となる。

― 平昌で出場した5種目すべてでのメダル獲得、おめでとうございます。特に金メダルを獲得したチェアスキーの「大回転」は素晴らしい滑りでしたね。

ありがとうございます。家族や親族、友だちがみんなお祝いをしてくれました。街のなかでも声をかけてもらえることが増えましたね。

滑走中の村岡選手。アルペンスキー(座位)はチェアスキーという機器に乗って競技が行われる。滑走スピードは最高で時速100kmを超える。

― 今回の活躍でチェアスキーというものを初めて目にした人も多かったと思います。チェアスキーの魅力はどんなところにあるのでしょう。

雪上を車椅子で移動するのは、車輪が前に進まず、すごく大変です。でもチェアスキーに乗ったら、自由に雪の上を動ける。スピードに乗って、風を切って滑ることもできる。車椅子の陸上競技も速く走ることはできますが、スキーは時速100kmになることもあるんですよ。日常生活では味わうことができない感覚が何よりも楽しいですね。

― 病気で車椅子生活となったのが4歳のとき。その後どうやってスポーツをするようになったのですか。

小学2年のときに父が連れていってくれたスポーツイベントがきっかけになりました。陸上競技、車椅子バスケットボール、車椅子テニスを体験して、車椅子で目線の高さが同じ人たちと一緒に何かができることが、新鮮でうれしかったのを覚えています。同世代の車椅子の友だちもできて、自分が周りと対等でいられる場所を見つけたと思いました。
もともと私は活発な子どもで、病気になる前は外で遊ぶのが大好きだった気がします。歩けなくなってからは自ら外に出ることが少なくなり、家にこもりがちになっていました。でもスポーツで友だちができてからは、毎週末、練習会に通うことが楽しくて。そのうち本格的に陸上競技に取り組み、かなりスパルタな練習をして競技大会にも出場するようになりました。スポーツのおかげで、自分がすごく変わりましたね。

― どんな風に変わったのですか?

自分に自信が持てるようになったと思います。学校での友だちはみんな健常者だったのですが、これまでは無意識のうちに自分で劣等感や疎外感を感じていたのかもしれません。でも、陸上競技の大会でいい成績をとれるようになると、学校の友だちや先生みんなが、すごいね、と言ってくれる。自分は周りの人とは違うけれど、ふだんの学校生活のなかにも自分の居場所があると思えるようになりましたね。

いつもと意識を変えて臨み、ついに手にした金メダル

― 陸上競技からチェアスキーへの転向は、どのような経緯だったのでしょうか?

陸上競技も真剣にやっており、日本記録を狙うレベルの選手になってはいたのですが、中学2年のときに、3年後のソチ冬季パラリンピックを目指してスキーに転向しました。もともとスキーは大好きなスポーツ。小学3年のときに初めて体験してから、冬になると毎週ゲレンデに行くほど夢中になっていました。実は、障がい者スポーツのなかでもウインタースポーツは競技人口が少ないので、陸上競技に比べるとメダルまでの道のりが近いのでは、という計算もありました(笑)。周りの人たちにも「スキーでメダルを狙ってみたら」と強く勧められて、本格的にスキーに取り組むことにしたんです。
ソチではメダルに手が届かず悔しい思いをしたので、平昌では絶対にメダルを取りたいと思いましたね。

― パラリンピックのような大きな大会では、技術だけでなくメンタルコントロールも大切だと思いますが、苦労されたことはありますか?

競技が始まったら集中する。たぶん、その切り替えはうまくできるほうだと思います。でも、メンタルがすごく弱いんですよ。先輩たちからは「桃佳はふだんどおりの滑りができれば、絶対一番になれるのに、どうしてやらないの?」と言われ続けてきて、「やらないんじゃなくて、できないんだよ!」って心のなかでいつも叫んでいました(笑)。でもこれを克服しないとメダルが取れないことはわかっていたので、平昌に行ってからもずっと悩んでいました。

― 平昌で素晴らしい成績を収めることができ、「ふだんどおりの滑り」ができたという手ごたえがあったのでしょうか。

金メダルの「大回転」のとき、実は「ふだんどおりに滑る」ということの考え方を変えてみたんです。練習では、わりと緻密に自分の動きをチェックしながら滑っています。今のターンは板の角度が合わなかったなとか、この先は幅が狭くなるからもっと速く動かなければといった感じです。その「ふだんどおり」のことができていないから結果が出せない。なので、競技中に自分の動きをもっと具体的に考えていくことを意識しました。今どのポジションにいるのか、次にやるべき動きは何か、客観的に自分を見て、冷静に考えて滑っていったんですね。そうしたら自然にいい滑りができて、金メダルという結果を出すことができました。

― 新境地に達したのですね。

いえ、実はそんなこともなくて。次の「回転」でも同じようにやろうと思ったら、今度は逆に体がぜんぜん動かなくなってしまったんですよ。やばい!と焦ったとたん転んじゃって......一瞬レースをあきらめかけたんですが、「とにかく最後まで滑ろう」と思ったら吹っ切れて、あとは何も考えずに滑っていました。結果的にいつも以上の滑りになって、銀メダルを取ることができたんです。こういうときは人間、強くなるものなんだな、と思いましたが、結局どうしたらうまく滑れるのかまだまだわかっていないですね(笑)。

― 村岡さんの「私に始まって、私に終わる」という言葉が報道されていましたが、いずれにしてもそのとおりになりましたね。

その発言は誤解なんですよ。パラリンピックの競技日程の関係でたまたま私の滑走が最初と最後になる。だから私が最初にメダルを取って勢いをつけていきたい、という意味で話したのに、その発言だけがクローズアップされてびっくりしました。あれだけを聞いたら、私ってすごく嫌な人じゃないですか?(笑)。今回たまたまいい成績を残せたからよかったものの、そうじゃなかったら何を言ってるんだよ、って印象ですよね。とにかくそんな意味ではないので訂正したいです!

障がい者スポーツにずっと関わっていきたい

― 世界のチェアスキーのトップ選手との関係も変わってきたのでは。

私はライバルだと思っていますけど、これまでの海外選手の記事を見ていると、まだまだ私はライバル視されるまで認識されていないんですよ(笑)。今回やっと存在に気付かれるようになった、くらいじゃないかな。2022年の北京冬季パラリンピックに向かって、「うかうかしていられないぞ」と思ってもらえるくらいにはなれたかなと思います。

― 今後、日本のチェアスキー人口も増えるのではないでしょうか。

そうですね......でも障がい者スポーツはやっぱり夏の競技のほうが注目されますよね。東京夏季パラリンピックに向かって盛り上がっているところですし。日本では、スキーに限らず冬のスポーツはマイナーですから、みんなが始めるには難しいところもあるのが現実だと思っています。もちろん車椅子の人がスポーツを始めるきっかけになってくれたらうれしいですけれども。

― 今、早稲田大学スポーツ科学部の4年生ですね。北京冬期パラリンピックが今の目標だと思いますが、その先はどのような将来をイメージしていますか?

先のことはまだ考えていませんが、仕事を選ぶなら安定した仕事に就きたい。私はそういう性格なんです。負けず嫌いではありますけど、トレーニングのように淡々と同じことを繰り返す毎日が苦にならないし、そのなかでたまにある、週末の友だちとの飲み会を楽しみにしてその週を頑張る、というような生活が理想ですね。
どんな仕事に就いたとしても、障がい者スポーツの振興やパラリンピックにはずっと関わっていきたいと考えています。私自身はスポーツが好きな1人の障がい者にすぎないけれど、できることがあるならやっていきたいですね。

Text=木原昌子(ハイキックス) Photo=相澤裕明

After Interview

クールな笑顔の裏に、自身が言うとおりの負けず嫌いさも垣間見える。通い続けた陸上競技スクールは東京都北区の障害者総合スポーツセンター。埼玉の自宅から通うのもたいへんだが、元パラリンピアンの主催者からの指導もかなりのスパルタだったという。「完全スポ根の世界」。チェアスキーも、シーズンになれば毎週末どころか、平日もナイターに通う日々を続けてきた。高校は進学クラス。
「毎日、これでもかってほど勉強してました。でも、高校時代はほんとに楽しくて今からもう1回やり直してもいいくらい」。懐かしそうに語るときは笑顔が一段柔和になる。平昌から凱旋したときも、直後に高校の友だちが開いてくれた祝勝会が一番うれしかったという。
「スポーツが好きないち障がい者にすぎない」と言うが、それだけで5個のメダルを手にできるはずもない。苦労を苦労と言わずに淡々と頑張れる静かな闘志。そのありようこそが彼女を特別な人にしている。