人事、仏に学ぶ

部下や同僚との会話をよりよく変えるには

2018年10月10日

英語で話すときは高圧的な雰囲気なのに、日本語で話したとたん、かわいらしく見える外国人を見かけたことはありませんか?私は僧侶という仕事のかたわら通訳や翻訳にも携わっていますが、折に触れ、日本語にはそのように人を優しくする性質があると強く感じます。
たとえば「すみません」という言葉には、「済まない」(完了しない)と「澄まない」(スッキリしない)という2つの意味が込められています。つまり、「今まであなたからいただいた厚意への報いが済んでいないため、私の心はまだ澄んでいない」と伝えているのです。あるいは、人に贈りものをする際の「つまらないものですが」という言葉には、「あなたから受けた大きな恩義に比べれば、この手土産はちっぽけだ」という意味が含まれています。こうした、日本語が備える謙譲の気持ちの根底に流れるのが、仏教の精神です。
仏教の概念に「縁起」があります。みな、「縁起がいい/悪い」といった言い方で使いますが、もともとの意味は、物事はすべてつながっており、1つとして単独で存在しているものなどないということです。
多くの宗教は、神と自分、他者と自分が分離している二元論です。ところが仏教では、自分と他者は対立する存在ではありません。すべてはつながっているため、自分というものは単独では存在し得ない、と説く一元論の教えです。それが、持ちつ持たれつ、おかげさまという精神を日本語にもたらしているのです。
私たちは、自分と部下や同僚がつながっていること、そして、自らの発した言葉が他者に強い影響を与えることをしっかりと自覚すべきでしょう。そして、相手に感謝し気遣う気持ちを込めて話すことが、コミュニケーションをするうえで重要だと思います。
また、仏教には「身心一如」という教えもあります。身体と気持ちはつながっているので、多忙で疲れているときは心がささくれ立って言葉が乱暴になりがち。すると、同じ言葉でも相手への伝わり方が大きく異なります。忙しいときこそ、話をする際に穏やかな心を持つよう、ぜひ心がけていただきたいですね。

Text=白谷輝英 Photo=平山諭

大來尚順氏

浄土真宗本願寺派大見山超勝寺衆徒、翻訳家

Ogi Shojun 龍谷大学卒業後、カリフォルニア州バークレーの米国仏教大学院にて修士課程を修了し、ハーバード大学神学部研究員を経て帰国。僧侶としてだけでなく、通訳や仏教関係の書物の執筆・翻訳、講演を行うなど幅広く活躍。著書に『訳せない日本語日本人の言葉と心』(アルファポリス)などがある。